2021年7月 雑記

 現在、女性同士の関係性*1を描いた作品における「見つける/見つかる」という表現について論じた文章を探しています。

 読んだことがあれば多かれ少なかれ分かるかと思いますが、近年の百合作品には、登場人物を「見つける」、もしくは登場人物が「見つかる」という表現がしばしば登場します(わざわざ「近年」と限定しているのは、単に私が最近の百合作品にしか触れていないからで、特に過去の少女小説などと対比する意図はありません)。

 霧の中を動いて熱を奪われていく右手の指先が、人の肩らしきものに触れる。霧の向こうで、誰かがその指に触れてきた。最初は腰が引けたように、そして指先を撫でて確信したように、手を強く掴んできた。その力の入れ方には覚えがあった。

 触覚が、目で確かめる前から答えを言い当てていた。

しまむら、見つけた」

入間人間安達としまむら 8』

 遠くから眺めているだけだったら、きっとこんな風に苦しんだりせず、済んだんだろう。

 だけど、わたしは自分もそうなりたいって思ってしまったから。

 例えばそれは、太陽の輝きを浴びて輝く月みたいに。

「み、見つけた……」

 顔をあげる。

 そこには――。

みかみてれん『私が恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった⁉)2』

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萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる』

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未幡『私の百合はお仕事です!』

 どうでしょう? パッと思いついたのはこれくらいですが、真剣に探せばもっと出てくるはず。そのくらい「見つける/見つかる」という表現が百合作品に登場する、という印象が強い。ついでに言うと、見つけたあとは手を繋ぐという傾向もある気がする。もちろん「見つける」「見つかる」は極めて一般的な動詞なので、頻出するのは当然だ、と言われればそれまでかもしれません。ただ、やはり感覚的には、これらの表現って作中の重要なシーンで使われていることが多いように思えます。

 現状、上記のような私の感覚に同意しているのは私の知人1人のみなので、百合作品を好む方々の意見を伺いたいところです。で、ひとまずこのテーマについて先行して誰か論じていたり、論じている記事を知っていたりしないですか? という疑問への情報提供を求めています。

 何が見つかっているのか、何を見つけているのか。

 『いや、やっぱり「見つける/見つかる」という表現は百合作品において注意を払うようなものではないよ、お前の勘違いだよ』と思う場合もご指摘いただければ幸いです。 よろしくお願いします。

 

                                        

 

 昔はワンクールで2,30作とか平気で観ていたのだが、残念なことに最近のアニメとは軒並みウマが合わず、最後まで見続けられるものが1,2作くらいしかない。アニメその他の娯楽作品への関心そのものが無くなってきた、というわけではないので、本当に好みの問題なのだと思う。一抹の寂しさを覚えないでもない。

 じゃあ最近は何をやっているのかというと、いい歳して熱心にエロゲをこなしている。むしろいい歳したからエロゲをやっているのかもしれないが、まあそれはどうでもいい。エロゲの何が良いって、映像に比べてテキストは情報量が圧倒的に多いのが非常に助かるのだ。じゃあ素直に小説読めばいいじゃん、とも思うのだが、二次元の可愛い女は欲しいんだよな。二次元の可愛い女がいることを大前提に生活を営んでいる。

 情報量が多いということ以外にも、単に社会人になったことで使える金額が増えたこと、毎日きっかり17:30に退社できるために時間がそれなりにあることから、熱心にやり始めたという感じ。転職までの腰掛けのつもりだったが、給与の面を除けば存外いい会社を引いたらしかった。

 話を戻して、最近プレイして面白かったものと言えば、チュアブルソフト『アステリズム -Astraythem-』がダントツ。梗概を書こうが書かまいがプレイする奴は言わなくてもするしやらない奴はどうせやらないので書かないが、とても良かった。本作と、同制作陣による次々々々回作『あの晴れわたる空より高く』をプレイして確信したが、やはりイシダPは鬼才であろう。あとは『はるまで、くるる。』等、SF四季シリーズを手掛けた渡辺僚一にハマってしまった。今までまったく気づかなかったんだが、SFに適性があるのかもしれない。彼の作品をプレイして興味を持ってからというものブルーバックスを買い漁っており、SFに染まりたての中高生みたいな本棚になっている。勘弁してくれ。

 

                                         

 

 たしか、萩本創八/森田蓮次『アスペル・カノジョ』だったと思うが、当該作品の中で「男の人って○○なんですか?」と尋ねられた主人公が「男がそうかは分からないけど、俺はそうだよ」と返すシーンがあり、この返答にやたら感銘を受けた記憶がある。この主人公のような思考を当然にやるのって割と難易度高くない? という話。

 

 今日、私たちは「男なんだからしっかりしろ」だの「これだから女は~」といった趣旨の発言を滅多にしない。少なくとも、そのような言説に登場する「男らしさ」や「女らしさ」といったイメージは極めて恣意的なものである、というのが現在の一般的な理解だと言って差し支えないと思う。

 それらの言説を許容しないという姿勢は、「少数の個人から得られた性質を大きな集団にそのまま適用したり、逆に大きな集団に見られる性質を少数の個人にそのまま帰することには注意を払うべきだ」という意識のあらわれと言えるだろう。例えば、母親や姉妹といった身近なサンプルがわがままであるからと言って、女性が全員わがままであると考えてはいけない。同様に、たまたま有事の際に必要であったに過ぎない猛々しい男性像を、平時にまで求めてはいけない。目に見えていない多様なバラツキを捨象して、個人の特性がそのまま全体に適用可能だと捉えてはいけない。換言すれば、部分が全体を安易に代表すること、そして全体が部分を無視することは避けるべきだ。こんなものは、もはや"常識"である。

 

 一方で、この"常識"は案外定着していないのではないか、という疑問を持つことが筆者にはしばしばある。

 例を挙げよう。報道番組において、司会を務めるアナウンサーがゲストに対して、「この問題について、女性側の意見としてあなたはどう思いますか?」という質問を投げかけるのを見たことがあるだろう。少し考えれば分かることだが、端的に言って、この問いかけは個人が全体を代表することを暗に肯定している。"女性側"って一体なんだ? "男性"がその発言をすることは不可能なのか? そもそも、それは本当に性別が無視できない要素として実際に絡んでいる問題なのか? 上記の問いかけは本来これらの前提を議論した上で問われるべきものだが、当然ながらその議論が報道番組においてなされることはない。このような観点から、「○○側の意見として~」という問いかけは、先に出した例と同様に大きな過誤を孕んでいると言っていい。

 しかしながら、なぜかこのような質問をしたアナウンサー(加えて、その質問に当然のように答えるゲスト)がやり玉に挙げられるケースは、「これだから女は~」発言に代表される"常識"違反と比べて明らかに少ないと言っていい。というより、仮にこのような質問をされたところで、別に不快に思わない人がほとんどだと思う

 この不快に思わないという事実は、生物学的に同じ性別であり、あるいは性自認を同じくする人々の間で共通する点がある程度存在すること、少なくとも存在するということを私たちが無意識に否定していないということを意味する。

 ここから、じゃあ「これだから男、女は~」と「男性、女性側の意見として~」って何が違うの? というのが次の疑問になる……のだが、答えを出す前に当該疑問について考えることに飽きてしまった。というのは言い訳で、ただの知識不足。なんとか「そもそも、なぜ我々は『男らしさ』『女らしさ』というイメージを持つのか?」というところまではギリギリ考えたので、それを放流して溜飲を下げることにする。

 

 少し話を戻すが、個人に全体を安易に代表させないという"常識"は還元主義批判と通底する部分があるように思う。

 すでに述べたように、個人と全体が同一視できないのは、部分が必ずしも全体の性質を同じ割合で持つとは限らないからである。だが、それ以上に重要なのは、全体は部分の寄せ集めなどではないという事実だ。

 このことを分かりやすく説明するため、生理学者ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』を引用しよう。この本の中で、彼は「人間の意識とは何か?」という問題に関連して、意識とは創発という現象によって引き起こされるものではないかと推測している。

 物質的な世界では、こんなことが知られています。ある系が示した現象は、その系を構成するサブユニットの特性にははっきりとあらわれない場合があるのです。たとえば、化合物であるベンゼンは、六つの炭素原子は環状につながっており、水素は六つの炭素原子にそれぞれくっつくことで、環に結合している、とケクレは提唱しました。これは有機化学(そして生物学)で重要な、有名なベンゼン環です。(有機溶媒などとして)ベンゼンが示す特性を、炭素原子や水素原子そのものの特性から先験的に予測しておくことはこれまでのところ、できていません。いうなれば、新しい特性がC6H6の環状の系から創発されたのです。……言い換えると、系の特性の中には、そのコンポーネントであるパーツにその特性がはっきりとあらわれないものもあるのです。

 となると同じように、主観的な意識経験について、私たちはこう考えざるを得ないのです。これは、脳内の物質的な神経細胞の活動からなる、一定の条件を満たす系から、どういうわけか創発される現象だと。*2

 創発によって生み出されるのは、何もベンゼン環や主観的な意識経験に限られない。一般に人間の身体がそうである。心臓や肺、肝臓といった器官はそれ単体で存在するようなことは想定されておらず、お互いにお互いを前提し合いながら相互に作用することではじめて意味をなす。そしてこの時、それらの器官単体からは予想できない機能を持つ「身体」という全体が生まれるのだ。

 そしてケストラーによれば、あらゆる有機体は部分と全体の両面を持つホロンからなる多層システムであり、生物や社会、宇宙全体において絶対的な部分や全体というものは存在しない*3。人間の身体は、それよりも下位のレベルに位置する複数の器官の相互作用によって構成されており、その器官らは複数の細胞の相互作用によって構成されており……と続く。

 逆もまた然り。すなわち、人間同士で協同し、相互に作用することによって、社会共同体が創発される。そしてその共同体で生み出されるものは、人間1人では生み出せないものばかりであることは説明するまでもない。森信成いわく、「人間というものは個人個人をとってみれば、みんな制限のあるものです。しかし、人類として普遍的な性質を持っています。つまり、人間は個人としてはみんな制限を持つ欠陥のある存在です。しかし、人類としては、人間は完全である、このように考えざるを得ません」*4

 

 以上の前提を共有した上で、"常識"違反に話を戻そう。 

 そもそも、「男らしさ」「女らしさ」のイメージはなぜ生まれるのだろう。この疑問に対して、部分と全体の両面を持つホロンという多層システム、そしてコンポーネントからは予測できない性質が生まれる創発という現象を組み合わせたとき、こう考えることは出来ないだろうか。すなわち、「男らしさ」「女らしさ」とは、同じ性別の人間が集団で集まったときに創発される性質なのではないか。例えば、男性が集団として活動するとき、その集団が全体として「頼りになる」「たくましい」「決断力がある」というのは割と妥当するのではないか。同様に、女性が集団として活動するとき、「やさしい」「気配りができる」「家庭的」というのはそんなに的を外れていないように思える。こう考えることで、人々が「男らしさ」「女らしさ」のイメージを持つ理由が説明できるのではないか。

 また、「男らしさ」「女らしさ」といった性質のある程度は創発によって生み出されるものであり、故にそれらの性質はまったく非実体的だというわけではない。いくらか実体的なものなのである。ここから、生物学的に同じ性別であり、あるいは性自認を同じくする人々の間で共通する点がある程度存在すること、少なくとも存在するということを私たちが無意識に否定していない理由も説明できるだろう。

以上、終わり。

 

 書いている途中、「またしょうもないことを薄い根拠で書いている……」という気分でいっぱいになった。何が分かってるってわけでもなければ、まともな指導も受けていないくせに、それっぽいことをしたい一心で動いているからこうなる。

 こういう、何か些末なことを考えるようなのは基本全部独りでやってる(というか知人とやってる人っているのか?)ので新奇性が失われがち。自分はホーリズムというか、全体論に頼ることが多い(それだけ好きということもあるけど)。せいぜいアニメかマンガかエロゲくらいしか新奇の考えに触れる機会がないのがあんまり良くない。でもこういう話をする友達を作るのも、自分の面倒くさがりのせいで迷惑をかけそうなので悪いなぁという気持ち。端的に言ってナイーブすぎる。

 

                                        

 

 島村抱月の文章を読んでいて、ある感覚の乖離が面白かったので言及。

 抱月は『懐疑と告白』の中で「今日の新聞紙を一週間も読んで居れば、天下に聖人だの英雄だのというものは居なくなってしまう。勿論一芸一能に秀でた人は居るけれ共それは全人格の上の英雄でも聖人でもなく、従って崇拝などとは思いもつかぬことである。……昔は新聞紙なども無かった為、キリストも孔子も馬鹿々々しい程人間離れのした偶像に飾り上げられた。現代ではそれが出来ない」*5と指摘しているんですが、21世紀の現在はむしろ「聖人」や「英雄」があふれる世の中になってません? オンラインサロンとか、YouTuberとか。

 こうなってしまったのは、いかんせん情報量が多すぎて人間の処理できるレベルではないので、必然的に仕入れる情報を制限せざるを得ず、結果として都合の良い情報だけを都合良く集めてしまうのかな、と誰でも言えるようなことしか思いつかない。

 感覚の乖離が面白いから取り上げただけで、特に言いたいことはないです。そもそもタレントもYouTuberもよく知らないし。年がら年中、知らないタレントが知らないタレントと結婚したり離婚したり熱愛したり不倫したりデビューしたり引退したりしてるので、常においてけぼりを食らってる。

 とは言え、流石にチャンネル登録している場末のYouTuberがごく僅かながらいるんですね。それで、ついこの前その内の1人が逮捕されたんですよ。知っているYouTuberが逮捕されたのは初めての経験で、「なるほど、知ってるYouTuberが逮捕されるってのはこういうことなのか」とよく分からない興奮を覚えました。あれは良い経験だったな。

 

8月も頑張りましょう。

*1:以下では、「百合」と表記する。

*2:岩波書店下條信輔・安納令奈訳、2021年、224-225頁

*3:アーサー・ケストラー『ホロン革命』、工作舎、1983年

*4:新泉社『唯物論哲学入門』、1972年、66頁

*5:岩波書店島村抱月文芸評論集』 旧字体、旧仮名遣いは読みやすいように適宜書き換えています。