2021年11月 雑記

 

 存在しない美少女ゲームのタイトル

 

 ・『LAGOON』

 間違いなくSFですね。巨大都市・ラグーンで渦巻く陰謀と蠢く闇にかかわってしまった1人の少年が、仲間たちとともに強大な敵に立ち向かう感じの話。設定の辻褄に賛否両論はあれど、ストーリーが壮大かつ感動的なのでおおむね良い評価を受けていそう。

 

 ・『めいどの流儀!』

 一人暮らしの主人公のもとに突如メイドがやってくるドタバタコメディ。ギャグかと思いきやちょっと泣かせる展開もあるなこれは。売れてなさそう。

 

 ・『Stella Festa!』

 あらすじ「○○高校の文化祭 Stella Festa には、星が降る後夜祭の日に告白が成功すると、成立したカップルは永遠に幸せになれるという噂がある。そんな噂とはまるで縁のない主人公・○○がある日空を眺めていると、流れ星とともに女の子が落ちてきた!? ステラと名乗るその女の子には、不思議な秘密があって……」とかだろ。言ってしまうとありがちな感じではあるから、こういうのが好きな人は好きだし、見飽きてる人は見飽きてるしで評価が割れてそう。

 

 なんか全体的にセンスが古いな…。

 

 

 

 読み込む という言葉があると思うが、俺はこれを「作品に自分の思想や感情を見出すこと」という意味で使っている。たとえば、「私はこの作品に両立論を読み込んだ」というとき、「私はこの作品を両立論的に解釈することが可能(ないし解釈すべき)だと思う」というふうな感じ。

 で。面白いというかなんというか、何故か自分はこのような 読み込む の用法を一般的なものだと割と長い間思っていた。というか、今でも一般的な用法なのか俺の恣意的な用法なのかがハッキリしていない。誰も文句言ってこないから一般的な用法だと思って勝手に使っている(し、自分の中でかなり座りの良い語なので、これを使わないということができそうにない)。

 

 「共感する」ではダメなのか、というのがあると思うが、これはやや受動的にすぎる感じがする。「読み込む」には「熟読する、データを移す」というような意味があるからか、自分の情報を対象(作品)に映写するという感じが出てきて、能動性が強くなるような気がする。で、そのイメージを好ましく思って、「思想を読み込む」という言い回しを使っているのかもしれない。

 そもそも、あらゆるものは他者との関係において規定されるとか、人は自分以外のものを通してのみ自分を知るというような考えを採用していることが、上のような 読み込む の用法に違和感を覚えない上で大きな役割を果たしているように思う。自分以外のものにこそ自分が表れるとかなんとか。ここらへんはオナニーなのでどうでもいい。

 

 特になにか言いたいというわけではなく、読み込む って一般的な用法じゃあないのかもなあと思って、気の向くままに書いただけです。皆で使おう。

 

 

 

 私たちが「好奇心などという、無駄で非生産的で、もっていると不利としか思えぬ性質」を持つのは何故か、という疑問を説明する有力な仮説の1つとして、千葉聡は「好奇心が強いことによる目先の不利益を、それによって得られる長期的あるいは大局的な利益が上回る」というものを挙げている*1。いわく、「好奇心を働かせて吸収した情報や知識は、……環境が大きく変わった時、危機を回避したり、食物を確保したりするのに役立ち、子孫を残す上で有利になっただろう」。

 

 こういった食物の確保や子孫繁栄といった実利にとどまらず、もっとずっと広範な(むしろ個人的な?)領域でも同じことが言えるんじゃないか、と思う。

 つまり、短期的にはそれがどんなに悪いことであったとしても、新しくものごとを知るということそれ自体が、長期的にみたら当人にとって必ず良いことである、と言えやしないか?

 1つくらい反証があるだろうと考えているんだが、あんまり思いつかないのだ。それを知っていることがあらゆる時、状況又は場合において絶対に悪いことであるというものは存在するのか? なんか思いつきませんか?

 

 1つの単純な例として、余命宣告を考えてみる。

 余命宣告というのは、まあ大抵の場合、短期的には最悪だと言っていいだろう。医者から突然「あなたの命はもって数ヶ月です」と言われたら、誰だって狼狽し、当惑し、嘆き、怒る。

 一方で、時間がありさえすれば、そういった悲劇すらも私たちは乗り越えてしまうらしい(ここでキューブラー・ロスでも引用できたらカッコいいんだろうが、勉強不足で読んでいないから引用できない)。多分、多くの人は「時間さえ貰えれば、自分の死を受容できそうだ」という感覚を持っているだろう。死は、短期的には最悪でも長期的には大したものではないようである。

 死というものは、それを知ったところで、長期的に見て大した脅威ではない。それどころか、自身の死を受け入れて死期を知ることで、むしろ自身の死への準備期間が手に入ることになる。そう考えた時、余命を知ることは良いことですらあるのだ。もちろん、死を受容するまでに死なないことが条件であるが(それが長期的ということである)。

 

 知ることそれ自体が悪いことなどあるのかについて、もうちょっと考えた方が絶対良い(たとえば「退屈」を知るのはそれ自体として悪いような気もする)んですが、月終わりに差し掛かって興味が薄れてしまったので終わりです。

 今は加害性(人をモノ扱いしたい欲求とか)について興味があるので、来月はそんなことを書いてると思います。眠いので終了。

 

 

 

 『CROSS†CHANNEL』をやった。

 どうせ山辺美希が一番人気だろ。俺は知っているんだ。分かるよ、可愛いもんな。

 

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 このシーン観たとき、とてもホッとしてしまった。

 

 ところで、本作は『はるまで、くるる。』と似ているという指摘がままあるらしい。

 まあ言わんとせんことは分かる。たしかに、個々の要素に分解、還元すればいくつか共通項が見つかるとは思う(冬音と美希とか、血を見て動揺するとか)。

 ただ、そりゃ作品なんかごまんとあるのだから、設定がある程度似通った作品だってあるだろう。まあでもそんなことはどうでもいい。というのは、両者はたまたま似ているに過ぎないのではなく、決定的に違うように思うから。

 

 『はるまで、くるる。』と『CROSS†CHANNEL』の決定的な違いとは、中心的なテーマが違うということ。

 前者は(これはSF四季シリーズを通して言えることだと思うが)、割と徹底してロマン主義なのだ。ロマン主義の根底には、現状に対する強い不満がある。その不満をバネにして「ここではないどこか」へ行こうとし、理想郷を夢想し、より大きな広がりを求め、圧倒的なものに巻き込まれること、包摂されることを願う。で、なんでそんなことをするの? そんなことをしてなにが良いの? 生きるってなに? 死ぬってなに? というのをテーマに据え、下ネタとSFを交えつつ描かれたのがSF四季シリーズだと言っていいように思う。

 一方、後者はコミュニケーション云々をテーマにしている(と筆者は理解した)。平たく言えば、「他人とコミュニケーションを取るときの適切な距離というのは人によって異なるので、それぞれが自分にとっても相手にとっても心地いい距離はどのくらいであるかをよく考えてコミュニケーションを取りましょう」という話だと受け取った(別にここまで教訓めいた言い回しをしなくてもいいんだけど)。で、黒須くんにとってはあれが1番適切な距離の取り方であったと。相手を傷つけず、自分も傷つかず、見返りを求めることがなく、それでいて緩くつながっている(と自分が信じていられる)距離。そういうものを読み込める。少なくとも筆者は読み込んだ。

 総括すると、『CROSS†CHANNEL』普通に面白かったです。これから1ヶ月くらいは「ミキミキです!」って言ってから話し始めると思う。それぐらいの面白さ。

 

 考えてみると、上記の黒須くんの立場は、筆者が先月書きかけた「行為の原子性」の立場とかなり近いように思う。一応言っておくと、決して本作品に影響を受けて「行為の原子性」を思いついたわけではない。

 実際に本作品がそのようなことを言っているのか。それとも、筆者が本作品に「行為の原子性」を読み込んだのか。どちらもある程度ただしいんだろうな。

 

※追記(2022年1月5日)

 『四季の資料集』を読んで、『はるまで、くるる。』の元ネタが『CROSS†CHANNEL』であると明言されていることを知りました。自分の勉強不足で、憶測で適当なことを書いてしまい申し訳ないです。自分への罰として上の文章はそのままにしておきます。大変失礼いたしました。

 

 

 12月も頑張りましょう。

*1:『進化のからくり』、講談社、2020年