2022年2月 『最終試験くじら』雑感

 基本的に読書して思ったことを雑に書いているわけですが、今月はちょっとサボりすぎて本を読めませんでした。じゃあ何をしていたかというと、『最終試験くじら』をやっていました。

 

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 さすがに有名タイトルだけあってかなり面白かった。シナリオ自体は美少女ゲームに典型的な、世界観を小出しにして想像力を掻き立てる系のヤツで、我々みたいなのは終生こういうのが好きである。

 『ディアノイア』等の楽曲もめちゃくちゃ良い曲だな。OP映像の出来も秀逸で、美少女ゲームでお金が稼げてた最後の時期なのかと妙に悲しくもなった。とにかく良かった。

 また、これは全面的に俺が悪いが、シナリオは春香√からさっぱり分からなくなってしまった。でも分からないなりに面白いんだよな。あれほど意味の分からないシナリオにもかかわらず、ファンディスクどころかアニメ化まで実現したというのは今ではもはや信じがたい。意味不明なテキストにも、というより意味不明なテキストだからこそ金を出していたような人がたくさん居た時代だったということなのか。それが良いとか悪いとか言うわけではないが、そういう、もはや作者本人しか分からないようなテキストを並べた作品が俺はとても好きなので、単に羨ましい。

 というかまずタイトルからしイカしている。なんだ、『最終試験くじら』って。何を食ったらそんなタイトルを思いつくんだ。Final Examination Kujira.

 キャラデザについては時代を感じざるを得ないが、個人的には許容範囲内。これは虚空に向かってしきりに言っているが、俺は2012年前後のひなた睦月の絵がドンピシャなので、ゼロ年代あたりの画風ならそこまで強い忌避感がない。どうでもいいな。

 

 ということで、よく分からないなりに面白かったので少し書きます。以下、もし評論を書くようであれば、さしあたりこのような仮説に基づいて文献に当たるよ、というものです。

 

 

 さて、本作のオープニングムービーを観ると、全体を通してどことなく物憂げな雰囲気が漂っていることが見て取れます。この傾向はテキスト本文においてなおのこと顕著であり、本作に登場するキャラクターはいずれも脆く儚く描かれている印象を受けます。そしてそのようなか弱く庇護されるべき存在としての〈美少女〉は、そうであるが故に〈美少女〉たり得るのだということが言えそうです。

 と、ここまで言ってしまうと直接的ですが、本作に登場するキャラクターは典型的な〈美少女〉に該当するように思います。すなわち、『最終試験くじら』のヒロインはいずれも「傷つきやすさを身にまといながら、しかしそれゆえに決して傷つかない」*1、「男の価値を裏付けてくれる絶対的な存在」*2です。

 そして、本作における「男」とは当然ながら主人公・久遠寺睦くんです。ということで、以降本稿では久遠寺睦くん=おたくという見方を採用して、話を進めます。おたくとしての久遠寺睦くんです*3

 

 久遠寺睦くん=おたくと仮定して考えてみると、本作のオープニングムービー冒頭で流れる「世界は黒くて汚いから せめて 君だけは…」という文言はなかなか象徴的に思えてきます。ここからは、『「黒くて汚い」世界にあって、せめて(真っ白でキレイな)君だけは(そのままでいて欲しい)』というおたくの屈折した心理を読み取ることができます。言うまでもありませんが、ここでの「キレイ」とは性的に汚れていないということです。あけすけに言えば、「君」が「キレイ」なのは処女だからです。この見方がおおむね間違っていないことは、作中に以下のようなテキストがあることからも分かります。

 

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このシーンの睦くん、最悪すぎて何回読み返しても笑ってしまう

 ここで重要なのは、睦くんは、自身もまた「黒くて汚い」世界の一部であると認識していることです(例えば、春香√では睦くんが厭世観を抱えていることが披瀝されています)。「黒くて汚い」世界の一部である久遠寺睦くん=おたくが「キレイ」な〈美少女〉の存在により自身の男としての価値を裏付けてもらう、という構図がここに現出しています。

 

 と、ここまで考えたところで、私は、仮に「君」がくじらの少女を指すのであれば、睦くんとくじらの少女がセックスをすることはないだろうと予想しました。「黒くて汚い」睦くんがセックスなんぞしては、くじらの少女が「キレイ」でなくなってしまうからです。

 ところが、私の予想に反して、睦くんはくじらの少女(南雲さえ?)とあっさりセックスしてしまいました。これはどういうことなのか。

 

 実は、名雲さえ√後半にて、この世界が現実の世界ではなく睦くんの生み出した「不条理な世界」であること、現実の世界では過去に睦くんが無理にさえを外に連れ出した結果としてさえが倒れてしまったこと、睦くんがそのことを強く後悔していること等が判明します。

 自身の欲望を発散させたせいでさえが倒れてしまったという事件を通して、睦くんは自身の暴力性というものに気づいてしまいました。「恋愛というリアリティに向き合ってしまった男の子は、自分が彼女を傷つける者であり、損なう者であるという現実に直面します」*4。そうして直面した自身の暴力性に耐えられなくなり逃げ込んだ先が、かの「不条理な世界」だったということです。

 

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 この「不条理な世界」に登場する南雲さえは、睦くんが生み出した妄想の南雲さえです。現実に存在する南雲さえと妄想の南雲さえとが別の存在であることは、アホ毛の有無から容易に判別ができます。アホ毛のないのが現実、アホ毛のあるのが妄想です(さらに言えば、くじらの少女にはアホ毛がないことから、現実の南雲さえに近い存在だということが示唆されています)。

 したがって、睦くんは現実の南雲さえとセックスをしたのではなく、あくまで妄想の南雲さえとセックスをしたということになります。そしてそうすることによって、現実の南雲さえはいまだ「キレイ」なままでいることが可能になります。

 

 さて、これはよく考えてみると面白い展開です。というのは、現実の南雲さえを傷つけることを恐れて生み出した「不条理な世界」で、結局睦くんは(妄想とはいえ)南雲さえを傷つけてしまっているからです。もっと言えば、睦くんは南雲さえを「黒くて汚い」ものにしてしまっています。

 それでは、なぜ睦くんは妄想の南雲さえを「黒くて汚い」ものにしてしまったのでしょうか。あるいは、しなければならなかったのでしょうか。

 

 結論から言えば、睦くんが妄想の南雲さえとセックスをしたのは、彼女を「黒くて汚い」ものにしたいという暴力的な欲求を満たしたかったからに他なりません。

 睦くんは先の一件を通じて自身の暴力性を自覚するに至りましたが、それを自覚したところで暴力的な欲求がたち消えるわけではありません。ここにおいて睦くんは、自身のうちから湧き上がる暴力的な欲求と、それを現実の他者にぶつけてはいけないという理性的な抑制との矛盾に苦しめられることになります。その苦しみから逃れるため、暴力的な欲求を安全な形で発散させる方途が望まれます。その方途とはなにか? もうお分かりのように、妄想の中の〈美少女〉に対して欲求をぶつけることです。「人間ではなくキャラクターが相手なら、男性は安心して自分の視線をさまよわせ、そこに秘められた暴力性を開放し、思う存分「見る」ことができます」*5。このように、『最終試験くじら』とは、自身の暴力性に気付いた久遠寺睦くん=おたくが妄想の〈美少女〉を汚すことによって暴力的な欲求を満たすことで、現実の〈美少女〉を傷つけないようになんとかやり過ごそうとする物語だということが分かります*6

 

 「不条理な世界」が崩壊する直前、妄想の南雲さえは、睦くんが妄想から飛び出して現実を見つめようとするのを制止します。妄想の南雲さえは睦くんが生み出したものであるため、睦くんの気持ちの代弁者でもあります。なので、このシーンは睦くんの中で現実へ向かおうとする気持ちと妄想の中に留まろうとする気持ちとがせめぎ合っている描写だ、ということができます。なぜそのように葛藤するのかといえば、妄想から離れることによって、妄想に対して発散させていた自身の暴力的な欲求が現実の他者を傷つけてしまわないか心配だからです。

 

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 しかしながら、いつまでも現実を見ないというわけにはいきません。端的に言って、暴力的な欲求を他者にぶつけることを徹底的に拒もうとすれば、生存することができないからです。もちろん、他者へと欲求をぶつけることは可能な限り回避するべきです。しかしながら、私たちは多かれ少なかれ他人に対して暴力的な欲求をぶつけ、またぶつけられる存在です。そのことを覚悟した上で生きなければなりません。それこそが現実に向き合うということの意味ではないでしょうか。

 ということで、この物語はおたくが取るべき生き方の1つのモデルを提示しているということができます。私たちは暴力性を伴う己の身体となんとか上手く付き合っていくしかないのだ、というモデルです。以上、私は本作をそのように読みました*7

 

 と、書いている途中で「なんか違う気がするな……」と思いましたが、さしあたり仮説をたてるとすればこういう方向性かなという感じです。

 今回提示したような見方では説明できない疑問点も当然あって、例えば、女形になれるほどに美形の主人公が「黒くて汚い」というのは矛盾していないか、というのがあります(なので、「黒くて汚い」というのはむしろ仁菜のことを指しており、本作の核は実は彼女なのではないか、と思ったりもします。「汚い」とか「最終試験」というキーワードが頻繁に登場するのも仁菜√ですし)。また、仁菜を含めた他の登場人物をあまりに無視しすぎている点や、そもそも「くじら」とはなんだったのか? という点も説明できていません。というか、そもそもオリジナリティに乏しい。現状ではササキバラの論の当てはめに過ぎないし、付け加えるとしても2000年前後に起きた事件を踏まえただけのありきたりなものになりそう。実力不足がひたすら露呈してしまった。精進します。

 

 3月も頑張りましょう。

*1:ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史:「萌え」とキャラクター』、講談社、2004年、68ページ

*2:同書、50ページ

*3:なお、私としては、ここでの「おたく」とはおおむね2000年以前のおたくを想定しており、いわゆるゼロ年代以降のオタクを含むものではありません。その理由は、1つには本作が2003年に発売された作品であるからです。2つには、後述するように久遠寺睦くん=おたくは自身を「黒くて汚い」世界の一部と捉えているのですが、私にはゼロ年代以降のオタクの多くが自己を「黒くて汚い」ものと認識しているとは思えないからです。

*4:同書、61ページ

*5:同書、181ページ

*6:余談として、本作の1年前に発売された『CROSS†CHANNEL』も、内から湧き出てくる暴力的な欲求と、それを何とかして抑えようとする理性との対立をテーマの1つに持つ作品として読むことができるように思います。発売年が2000年代前半である点、いずれの主人公も美形として描かれている点などの共通点もあり、見えてくるものがあるように思うのですが、私の知識不足のため、いまだ自信をもってなにかを言うことができる段階ではありません。

*7:別論ですが、私たちが多かれ少なかれ〈美少女〉を性的に欲していることは認めざるを得ない以上、私には、その欲求を直接的にしろ間接的にしろ公の場であらわすことに抵抗があります。等身大パネルとかね。なお、「俺は〈美少女〉を性的に欲していない」という抗弁は原則認めません。そんなはずはないからです。