2022年6月 好みの作風/Skeb依頼/怒りのスピーカー

 

 おい、そこのお前。

 今から、ミヤスリサ桜沢いづみひなた睦月は2010年前後の作風が最も可愛い、という趣旨の話をするので付き合いなさい。

 と言っても、大した分析をするでもなく、シンプルな印象論なのだけど。

 

 まずはミヤスリサの今の絵。

 

 次に約10年前。

WHITESOFT『ギャングスタ・リパブリカ』

http:// https://moeapp.net/special/grepublica.html

 おそらく「そんなに変わっていないのでは?」と思っただろう。

 俺もそう思う。いや、なんか比較する前はぜんぜん違うと感じていたんだけど、こうやって並べてみると意外と変わらないもんですね。ミヤスリサはヒロインの服装がいちいち可愛くて良いよね。分かる。

 一応、pixivをザッと眺めると今と昔で多少違う印象を受けると思うので眺めるといいよ。

 次いくぞ、次。

 

 次は桜沢いづみの今の絵。

 

 そして、約10年前。

SilverBullet『花鳥風月 〜恋ニヲチタル花園ノ姫〜』

https://web.archive.org/web/20091217170125/http://www.silverbullet.jp/hanazono/index.htm

 すでに公式サイトが潰れている作品を引用するときにどうすればいいのか、ということについて一生悩んでいる(そもそも権利行使されるとも思わないけど、なんとなく居心地が悪い)。

 引用形式については一旦置いといて、これは結構違くない? 桜沢いづみはさ、こう、グッとくる泣き顔を描くのが本当に上手いんだよな。考えてみると、桜沢いづみの描くHシーンは高確率でヒロインが泣いている気がする。

 

 最後、ひなた睦月の今。

 

 約10年前。

bitterdrop『波間の国のファウスト

http://www.bitterdrop.jp/top

 これは流石に全く別でしょ! 

 

 余談として、『波間の国のファウスト』を制作した bitterdrop とその前身である Sputnik は、笠井翔という人が設立したんだけど、この人は笠井潔の息子さんなのです。いま、この笠井と、『波間の国のファウスト』のシナリオライター佐藤心がどうやって知り合ったのか、というのを調べているんですが、いまだ推測の域を出ず、判然としません。

 仮説の1つとして、この記事の中で佐藤が「同人ゲームをプレイしてくれた方が「佐藤さんのシナリオ良かったので一緒にやりましょうよ!」と言ってくれたんです。それで『波間の国のファウスト』を書くことに。」と発言していることから、何らかの即売会等で出会った可能性があります。これが本命(というか、佐藤心が携わった同人ゲームをやりたすぎる。せめてタイトルだけでも教えてくれねぇかなぁ)。

 もう1つのアクロバティックな仮説として、佐藤心は一時期東浩紀と深めに関わっていたことがあり、東浩紀笠井潔は往復書簡を交わしていたことがあるらしいことから*1、そこでできたつながりで紹介されたのでは、というのがあります。当然、この線は極めて薄いです。

 なんだこの話。

 

 本筋と1ミリも関係のない話をしましたが、要は10年前の方が概して良くない? ということを言いたかっただけだぞ。

 というか、そもそも作風に限らず、今の作品よりも2010年前後の作品の方が好きなので、結局「2010年前後」そのものが好きなんだと思う。思えば、アニメを観始めたのがちょうどその頃だったりする。

 

 話したいことは話したので、もう帰っていいぞ。

 

 

 

 イエイ! Skebで渡辺僚一先生に短めのお話(遭遇戦の話!)(俺は渡辺僚一の書く遭遇戦が好きなのだ!)を書いてもらっているぜ!

 

skeb.jp

 

 もうすでに他の方の依頼品がいくつもあがってるので、渡辺僚一を知ってる人も知らない人も読めばいいじゃない! そして俺の依頼品が完成したら、それも読めばいいじゃない! そして読んで面白かったら『はるまで、くるる。』他SF四季シリーズをやっちゃえばいいじゃない! イエイ! ファック! 

 

 本当に、こういう人を生かさないとダメだと思いますよ。俺は。

 

 

 

 ほとんど校正しないで文章を放流する。

 

 昔から、怒りの感情をコントロールするのがあんまり上手くないなぁという自覚がある。

 流石に最近は怒りの感情を他人にぶつけるようなことはなくなって一人で処理できるようになっているが、原始的な怒りの感情を自ら言葉にしてしまうことで、それが自分の中で増幅されていくというようなこと自体はそれこそ頻繁にある。

 自分自身がスピーカーとなって増幅させた怒りの感情を自分に向けて放つことで、ある種の自己暗示みたいなものにかかってしまう。

 怖いにゃんね。

 

 なんかこう、正義感とかでもないんだけど、他人が間違ったことを言っているのを見るとイライラして仕方ない。

 先日、「ゆっくり茶番劇」が商標登録された件が話題になったが、これについても無名の一般人からインフルエンサーまで、シンプルに商標法を理解していない誤った主張や事実の誤認に基づく主張をしていて、死ぬほどイライラしてしまった。

 以前、「日本には敬意を持って他人を批判できる人がいない」というのをどこかで見て、俺も例に漏れずそうだなと思った。すぐ罵倒したくなってしまうし、その罵倒を頭の中で反芻することによって、また怒りが増幅されてしまうという悪循環。SNS向いていないよお前。

 そして、これが一番良くないなと思っているんだが、俺は罵倒するとき(実際に罵倒するのではなく、頭の中で罵倒する自分をイメージするとき)、相手にダメージを効果的に与えるような、強く響くようなレトリックを思いつく。というか、思いつけてしまう。こうすれば相手の尊厳を傷つけられるだろう、みたいな文言がスッと出てくることに自分でも驚いてしまう。いつ覚えたんだろうか。そんなものは覚えなくてよかったのに。

 

 ここまで書いていて思うけど、やはり感情ベースで話が進んでしまうな。↑の「そんなものは覚えなくてよかったのに」もなにかレトリックがかかっているという感じがする。別にレトリックを使うのはいいと思うんだけど、「まともな」レトリックを使わないといけないとも思う。そして、俺が学習したレトリックというのは少なからず「まとも」ではないという感じもする。

 勉強しないとなぁ。色々となんとかしないといけない。

 

 7月も頑張りましょう。

 

*1:動物化する世界の中で ―全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評』、集英社新書