本当はSilverBullet等で活躍した沖水ミル先生の作品に登場する「姉」キャラクターの機能について論じたかったんですが、余裕がなくて書ききれなかった。9月中になんとかします。常識的に考えて、仕事して本を読んで美少女ゲームをやって資格勉強をしている合間に批評を書くのは無理です。今に始まったことではないが、何もかも狂っているな。
で、沖水ミル批評の代わりというわけでもないが、ちょうどよく思いついたのでめちゃくちゃ軽い『ルリドラゴン』(作・眞藤雅興)の批評をやります。私は3話までしか読んでいないので、そのつもりで。
『ルリドラゴン』と怒り
ひとからひどい目に遭ったら、「しかたない」とか「まあいいや」と思うことをやめること。そして、自分の中にうごめく不快感から身を振りほどいて脱出しようとせずに、そこになるべく長く留まるようにすること。「みんな私が悪いんだ」とけっして思わないようにすること。
あらすじ
主人公・ルリは、ある朝自身の頭に角が生えていることに気づく。今まで知らされていなかったものの、実はルリの父親は龍であり、自身が龍と人間のハーフであることを母親から聞かされる。当惑しつつもひとまず学校へと登校したルリを待っていたのは、クラスメイトからの質問攻めであった。人との付き合いが苦手なルリはこれに疲れを覚え、そのためか授業中に居眠りをしてしまい、罰として教師から教科書の音読を指示される。立ち上がったルリは、そこでくしゃみをした拍子に、まるでドラゴンのように大きな火を吹く。大騒ぎとなる教室。直後、ルリは火を吹いた反動による大量の出血で一時倒れてしまう。早退したルリは今後の生活について母親と話し合う。こうして、ルリの「ドラゴン」としての日常が始まるのだった。
私は本作を「怒り」という視点から読みました。もう少し具体的に言えば、本作は「溜まった怒りを適切な形で発散できず、他人も自分も(しかも自分をより激しく!)傷つけてしまう若者」の物語として読むことができます。どういうことか。
まず一般論として、「怒り」と「火」とは結びつきの強いイメージ同士であるといえます。「怒りの炎」というフレーズもあるように、人が怒っている様子はしばしば火あるいは炎を用いて表現されます。そのような表現を用いた作品に触れたことがある人も多いのではないでしょうか*2。
したがって、本作における「火を吹く」という行為は「怒り」の比喩である、と考えるのもそこまで荒唐無稽な発想ではないといえます。
では、そのような仮定のもとで本作を読むとどうなるか。
1話冒頭、ルリは自身の頭に角が生えていることに気づきます。この「頭に角が生える」ということ自体がかなり直接的な比喩*3であって面白いなと私なんかは思うのですが、さして重要というわけでもないので軽い言及に留めておきます。
それより重要なのは、ルリが冒頭から継続してストレスを感じさせられていることです。朝には起き抜けに自身の父親が龍であることを母親から聞かされ、かなり当惑します。また、登校した先でクラスメイトの話題の中心となり、「目立ちませんように…」と人の目を心配している点や、友人のユカが「もっと人と話した方がいい」とたしなめている点から分かるように、ルリは「見られる」ことのストレスに弱く、昼休みには「あ~つかれた~」と疲れを吐露しています。要は、ルリは火を吹くまでに強いストレスを感じているのだ、ということが言いたいわけです。
そしてそのような強いストレスにさらされた結果、ルリは授業中に居眠りをしてしまったところを教師によって強引に起こされたことで、思わず「暴発」してしまいます。この「暴発」は溜まった「怒り」を適切な形で発散できなかったからこそ、他者も自身も(しかも自分をより激しく!)傷つけてしまいます。「一般的に言って、怒りを溜めておくとロクなことがない。ある日、自然現象のようにふとした機縁によって噴出してしまう。C君もそれを自覚し、恐れているように、ナイフを持って道路に飛び出し、だれでもいいから刺して、それから自分も刺して死にたくさえなる」*4。
2話、火を吹く前後の会話にも注目してみましょう。ルリは母親から「ルリもおおよそ人間だよ」というやや雑な物言いに対して「んなわけないだろ」と返した後に「ピリッ」と違和感を覚えるわけです。もうお分かりのように、この「ピリッと」というのは「イラッと」と同じような「感じ」なのです。そして、だからこそルリはこの後「これが人間なワケあるかーー!!!」と「怒る」。
けれども、ルリはもうすでに一度教室で火を吹いています。つまり、自分の中に溜まった「怒り」をすでに放出しているので、少なくとも「暴発」するようなことはない。「怒り」を都度小出しにすることで、それが溜まってしまうことを防げることを理解している。もっと言えば、ルリは怒り方を覚えたのです。故に、ルリは「怒り」が「こんな普通に出るもんなんだ」と驚きつつ、もはや怒っても「全然痛くない」し、むしろ怒ることで「スッキリ」するわけです。
「火を吹く」行為を「怒り」の比喩と捉えると、3話でルリが登校を嫌がっていた理由も理解しやすくなります。彼女は「火吐いた」ことで「皆に怖がられたりしてない」かを心配していますが、要は、人前で起こった手前合わせる顔がない、自分が急にキレる奴だと思われていないか、といった辺りの感情がないまぜになっているわけです。
だけれども、ルリのクラスメイトは彼女のことを寛容に受け止めてくれます。グッとくる良いシーンですね。
そしてこれは現実においてもそうであらねばならない。もちろん言うは易く行うは難しで、実際にはかなり難しい場面もあるかもしれないけれども、作中で教師が言うように、「世の中色んな人がいるもん」であり、「色々思うところあるかもしれませんが」、お互いに妥協点や接点を見つけて「まあ仲良くやってい」くしかないのです。
私は大塚英志が好きなので、やや長いですが、最後に大塚の言葉を引用して終わります。『無論、「日本」に誰かが私的に自分自身のアイデンティティを委ねる立場をぼくは否定しません。ぼくがそれを選択しないだけであって、ぼくにとって国家とは公共サービスの制度上のカテゴリーでしかありません。ただその時、問題なのはそう考えるぼくと、そう考えないあなたと、また全く別の立場をとる別の誰かがこの国でにも拘わらず共存していかなくてはならないという当たり前の事実です。例えばその時に「日本が嫌いなら日本を出ていけばいい」と言うのは反則です。その場合の「日本」はそう主張する人の「私」と一体となった「日本」であって、つまり、それは「俺を嫌いなお前」をただ否定しているに過ぎません。』*5。
以上! 2日で書いたので雑だが勘弁してくれ!
サブリミナル・アジェンダ
「サブリミナル・アジェンダ」というのは柚子乃というアーティストの楽曲の1つです。今は亡きWHITESOFTという美少女ゲームブランドから発売された『ギャングスタ・アルカディア』という作品のOPなんですが、大きく影響を受けた本の1つである、森信成『唯物論哲学入門』*6をこの曲に見たので取り上げた次第です。
以下、歌詞の一部を抜粋。
上から目線を孤独にも受け入れ
納得出来ないけど無条件にも従う
(中略)
抗うべきと過ちを認めた
立場が違うけど無干渉では許さない
(中略)
守られるべき摂理から始めよう
納得できないなら無抵抗ではいられない
そして『唯物論哲学入門』。
民主主義の概念がどれほど混乱しているかは、たとえば、多数決とはどういうことか、少数意見の尊重とはどういうことかといった問題を出してみるとすぐわかります。ふつうは、多数決が民主主義的決定であると考えられていますが、そうすれば多数派はいつでも民主的であるということになります。たとえば、多数決が基準となっている場合、会議などにおいて多数派を占める側は少数意見の尊重といっても、その意見をまじめに聞く必要もありません。ただ相手をしゃべらせておくだけであって、いずれを決をとれば決まるのですから、いいたいだけいわしておけば気が晴れるだろうということです。かならず負けるのが決まっている場合には、少数派はばかばかしくておれません。いくらいっても、いうだけで負けるに決まっているのです。この場合、少数派のすることは分裂する以外にありません。もし、少数派の方が真理であるなら、多数決が民主主義であるということで、多数派の決定に辛抱しているのはよっぽどの場合であって、普通なら辛抱できません。*7
それが結果として多数派に阿る形になる以上、「中立」などと言って逃げることは原理的に不可能であるし、むしろその点に無自覚であるだけ暴力的でもある、という色々と複雑で困難な時代だなーということを思う。そういった多数派と少数派(個人)との対立をいかに裁くか、という点に重きをおいているからこそ後述する木庭顕先生が魅力的に映ったのだろうな。とにもかくにも、私たちは多かれ少なかれ、「立場が違うけど無干渉では許さ」れないし、「納得できないなら無抵抗ではいられない」ということですね。
こういうことをしていると、「歌詞になにかを見出すのが青臭い」という声が聞こえるが、俺はこういうことをします。お前もやれ!
その他
最近読んだ本で、木庭顕『誰のために法は生まれた』という本がオススメ。国家権力と反社会的集団とが徒党を組んでいる日本という国に生きる1人として読んでおくべきだなーという感じ。「占有原理」という考え方のモデルは持っておいて損はないと思われる。僕は勝手に師事している人リストに加えました。
後、これはもしかすると面白いんじゃないかと狙いをつけている美少女ゲーム(他にもいくらでも例示できるんだけど、今一番期待している作品)。といっても美少女ゲームも本に負けず劣らず積んでいるので、いつになったらプレイできるのかは誰も知らない。
多分あと2,3年くらいは2010年前後に発売された傍流美少女ゲーム(知名度も無ければヒットもしていない美少女ゲームをそう呼んでいる)をプレイして暇を潰せると思う。もはや最近のアニメはほとんど全部つまらなく感じるようになってしまい仕方なく傍流美少女ゲームに移行した、という経緯があるので、これをやり尽くしちゃったらどうなるんだろう、と今から戦々恐々です。
9月も頑張りましょう。