2021年9月 雑記

 

 以下は件のラーメン評論家さんが話題になる前から考えていたことであり、彼を擁護する意図は一切ないです。なんか期せずしてタイミングがあってしまっただけです。

 

togetter.com

 

 上の記事では、舌が肥えていることとはどんなものにも意図や良さを見いだせるということだ、あらゆるものを楽しめることだと主張されている。

 直感的に、いや、それはおかしい、と思ったので反論を加える回。

 

 

 一般に「舌が肥えている」というフレーズが使われる場合、大抵は「味の良し悪しが分かる」くらいの意味だといって差し支えないと思う。美味しいものを美味しいと、不味いものを不味いと適切に感じることができるということだ*1

 しかしながら、ここで真に重要なことは「舌が肥えている」がどのような意味であるかということではない。真に重要なことは、「舌が肥えている」は「味の良し悪しが分かる」以上の意味を持たないということだ。「舌が肥えている」とは「舌が肥えている」ということのみであり、それ以外であってはいけない。

 

 ところで、上に挙げた記事では、『たとえばマクドナルドを食って「なるほど、これは万人が受け入れる合理的な味だ。」とか、めちゃくちゃ高いのを食って「これはもう自己満足の領域だけど、私にはわかるぞ。素晴らしい。」みたいな、どんな料理にも意図や良さを見出せる』ことこそ「舌が肥えている」ということなのだ、と主張している。

 ここでは、マクドナルドを「万人が受け入れる合理的な味」であり、高級料理を「自己満足の領域」にある味と例示することから、一応それらの間に味の優劣があることは認めていると思われる。マクドナルドと高級料理との間にある味の差を判断できているということ、つまり「味の良し悪しが分かる」ことが「舌が肥えている」ことの条件だということだろう。これは特に問題ない。問題があるのは、なぜ「万人が受け入れる合理的な味」という曖昧な表現を強いられるのか、という点である。

 

 これは極端ではあるが、「良し悪しが分かっている」という点に限って言えばマクドナルドを「万人が受け入れる合理的な味」、高級料理を「自己満足の領域」にある味と呼ぶのと、前者を「バカでも分かる味」、後者を「分かるやつには分かる味」と呼ぶのとには本質的に違いがない。どちらの例であってもその良し悪しが適切に判断できているのだから、十分に「舌が肥えている」と言って差し支えない。

 にも関わらず、上に挙げた記事では「万人が受け入れる合理的な味」という婉曲な言い回しこそが「舌が肥えている」ということだとされている。何故だろうか。

 

 結論から言えば、そのような婉曲な言い回しと先ほどの率直な物言いとの違いは、料理を提供している人への配慮があるか否かということだろう。

 たしかにマクドナルドは高級料理に比べれば、その味は劣るかもしれない。しかしながら、世界にはマクドナルドを喜んで食べる人々が、マクドナルドではたらいている人々が、マクドナルドをもっと良いものにしようと頑張っている人々が、たくさんいる。その人々のことを考えたとき、マクドナルドを「バカでも分かる味」なんて表現するべきではないのだ。そのため、「万人が受け入れる合理的な味」という表現を選択せざるを得ない。いや、むしろ選択するべきなのだ。まあこういうことなんじゃないかと思う。

 しかしながらこの場合、「舌が肥えている」ということに「舌が肥えている」以上のこと、具体的には、見えない世界への配慮のようなものが要求されている。「舌が肥えている」は「味の良し悪しが分かる」以上の意味を持たないはずが、いつの間にか見えない世界への配慮がその要件として加わってしまっている。

 たしかに、私たちは出来る限り他人に配慮するべきだろう。しかし、それとこれとは話が別である。舌が肥えているとは「舌が肥えている」ということであって、「舌が肥えていて、かつ、人格的である」ということではない。「舌が肥えていること」と「マックとか牛丼を鼻で笑うようになること」は本質的に関係がない。舌が肥えているということに、舌が肥えている以上のものを求めるべきではない。

 それ故、舌が肥えているとは「どんな料理にも意図や良さを見出せる」ことだとする主張は間違いである。

 

 念のため言っておくが、当然ながら、筆者は料理を提供する方への配慮などいらないと主張しているわけではない。「舌が肥えている」ということと「他人への配慮ができる」ということは関係がまったくないのだ、ということ。そして、「舌が肥えている」人に「お前は他人への配慮がないから舌が肥えていないのだ!」と言うことには、大いに反対であるという類の話をしたかったのだ。そこを分離して考えないと、何かしらの不当な差別に直結しかねない(というか、してしまっている)と思うのだ。分かりやすい侮蔑なんかよりも、このような、強すぎる正しさを被った無自覚な中傷の方が溢れているんじゃないのか、という、まあ思春期によくあるお話がしたかったのです。

 

 

 以上が当該主張に対して真っ先に思ったこと。

 以下では、「舌が肥えていることの要件に人格的であることを加えてはいけない」という自身の主張に反論を加えてみる。

 

 

 1つは、「舌が肥えている」ということって、本当に「舌が肥えていて、かつ、人格的である」ということではないのか? という点。

 私たちは評論家である前に1人の人間である。そして、「人格的である」ことは人間に対して常に求められるべきことだと言っていいように思える。そうであるなら、「舌が肥えている」とは、当然に「舌が肥えていて、かつ、人格的である」ということではないか、という反論が思いつく。

 この反論には、『「人格的である」という要素は「舌が肥えている」という要素に優越しない。それらは1人の人間の中において等価である』という再反論ができるように思う。つまり、上では便宜上「評論家」という言葉を使っているに過ぎず、「舌が肥えている」という要素は本来1人の人間にまつわる要素であるということだ。

 

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 ここまで書いて、途中から始めた『ふゆから、くるる。』が面白かったので何もかもどうでも良くなった。全員『ふゆから、くるる。』をやれ。俺と熾火澱の話をするのだ。そして次は『はるまで、くるる。』をやれ。その後は『なつくもゆるる』もやるんだ。『あきゆめくくる』は任せる。

 

 

 

 

 「もうこの作品がやるべきことは8巻と特典小説で全部やったから別に読まなくてもいいんだよな」と思いながら、結局『安達としまむら』10巻を読んだ。読んでいて、ドクター・スース "You know you're in love when you can't fall asleep because the reality is finally better than your dreams." というフレーズを思い出した。このフレーズいつ読んでも素敵すぎる。

 それはそれとして、「これ以上この作品を読む必要はないな」というのは9巻でも薄々感じていたが、10巻で明確にそう思った。読んで面白いのと読む必要があるのとでは全く別で、前者に入る作品はたくさんあっても後者に入る作品はあんまりないなというのがここ最近の所感。もちろん、それらの境界線が言うほどハッキリしているわけでもないんだけど、前者をいかに削って後者をいかに増やすか、及びその基準をどう策定するかというところが重要であるように思う。なんといっても、時間やお金は有限なのだ。

 改めてこんなこと言い出したのは、英語の勉強に関して参考にしていた人(とっても優秀!)が最近やることがなさすぎて虚無になっているらしく、だいぶ辛そうだから。やることがない、ということの辛さと恐ろしさには常に警戒した方が良いらしい。

 

 

 

 

 生まれる時代が時代だったら、確実に革命運動か宗教活動にどっぷりハマっていたと思う。冗談とかでなくマジで。

 

 10月も頑張りましょう。

*1:「適切に」ってどういう意味だよ、みたいなつっこみはこの話において重要ではないので無視する