2021年10月 雑記

 本当は「行為の原子性について」という題でちょちょっと書こうと思ってたんだけど、ちゃんと考えるべきテーマだなこれは、となったのでいずれ長文で書きます。さしあたり、大きく言ってどういうことを考えているのかを書いておく。

 

 

 一定以上の年齢を過ぎてからこれを言うのは非常に憚られるのだが、敢えて言うと、自分は(少なくとも自分にとっては)特別な存在である。その理由は、自分の主観的な意識経験は自分にしか感じ取れないからだ。

 自分が何を感覚して、何を考えて、何を好み、何を嫌っているかということは手にとるように分かる。もっと言えば、感覚の上では自分が生まれることによって世界が生まれ、自分の死とともに世界も終わる。自分と世界とはまさに運命共同体である。

 その一方で、他人の経験は文字通り何一つとして理解できるものではない。私たちは共感や同情をすることができるではないか、と考える人もいるだろうが、それによって得た他人の経験はあくまで自身の経験に基づいた間接的なものであり、自身が直接に経験したものとは全く等価でない。このような事実から、他人なんかより自分の方がよほど特別であるように感じられるし、実際に特別であるということは容易に肯定される。意識的にしろ無意識的にしろ、すべての人にとって自分以上に特別な存在などいないのだ。

 

 ところで、私たちは日常において道徳的に活動するべきである。ここで道徳的な活動とはなんぞや、というのは面倒なので云々せず、簡単に「他人に配慮して行動すること」とでもしておく。

 さしあたって確認したいのは、道徳的な活動と「自分は特別である」という観念とは相性が悪く、同時に成立するのが比較的難しいということだ。たとえば、自分は特別であるのに、どうして他人に配慮した行為をしなければならないのか。むしろ、他人が自分に配慮するべきだ、といったようなことである。

 で、こうなると社会が立ち行かない。残念ながら、人間はその出生から既にそうであるように、そして成長を経てから年老いて死ぬその瞬間まで、ひとりで生きるということが不可能である*1。なので協力しないといけない(実際、分業による生産力の大幅な向上など、協力した方が明らかに良い場合というのは存在する)。

 ただし、それは社会の歯車になることを当然に意味しない。むしろ歯車で終わるのは誰だって嫌だろう。「宮台〔宮台真司:引用者注〕が講演したあと、質疑応答の時間に、女性が立って、自分は普通の主婦で終わりたくない、と思っている、と言ったというのだが、その時宮台は、自分と同じだ、と思ったという」*2。また、『とにかく明治という時代にあって「私とは何か」「社会や国家という人のまとまりのあり方をどうつくるか」を若者は皆、真面目に思い悩むわけです。そして今ではそういう態度を「中二病」などと呼び、「嗤う」スタンスがweb上には散見してますが、「ワロタ」ところでポストモダンはやってこない、ということですね』*3

 自分もまた「ここで終わりたくない」というような意識を持っている一方で、道徳倫理の要請を笠に他人に配慮を求める(=「ここで終わらせる」)ことに、どれだけ筋が通っていると言えるのか。

 

 要は、自身もまた自分のことを特別だと思っているのに、他人への配慮を求めるというのはどこまで正当なのか、ということ言っている。他人への配慮を求める対象にとっての他人とは配慮を求める主体のことである。つまり、主体は他人に対して「自分に配慮しろ」と言っていることになり、まさに自分のことを棚に上げているのである。こういう構図があるので、純粋に論理的な形で他人への配慮を求めるということは出来ないのではないか。感覚的な話をすれば、この辺りはかなりなあなあに妥協されて済まされていると思う。

 

 

 さて、何が言いたいのかというと、つまりこういうことである。

 これに限らず、ものごとの多くはこのように堂々巡りになってしまうのではないかという疑念が自分の中にある。そして、その堂々巡りに陥らないために人ができる最大限のこととは「他人に対して無干渉である」ということではないかと考えているのだ。

 で、この「他人に対して無干渉である」ということを頑張って掘り下げてみたいなというのがあり、さしあたりこの思想に「行為の原子性」という名称を付けた、という話。なんで「原子性」なのかというのと、それ自体として完結しているが、より大きな(高い)レベルの個物を構成する一部分でもあることを否定しないから。「独立性」だとその辺りを含意できないように思う。まあいずれ頑張って考えて頑張って書きます。

 

 

 

 9月から10月前半は適性の無い勉強ばかりやってたので人生終わりです。すべて終わり。具体的になんぞやというと、情報処理です。エンジニアになりたいとかそういうのでは一切なく、諸事情でAPを取得する必要があるため、6月からチマチマ参考書やら過去問道場やらで勉強して、10日(日)に試験を受けてきた。

 約3ヶ月の勉強期間を通して、自分には情報処理に関する適性がほとんど皆無であることを悟った。参考書を読んでいても文章から目が滑るのなんの。プログラミングもデータべースもアルゴリズムも、何が面白いのかさっぱり分からない。

 他にやるべきことがあるのに、なぜ適性の無い勉強を強いられているのか理解不能でずっとこうなってた。

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©すみっこソフト『はるまで、くるる。』

 (SF四季シリーズ、面白いのでやろうね)

 唯一、ネットワークだけはギリギリ興味を持てた。やはり普段使っているものがどういう仕組みをしているのかを知ることって基本的には面白い*4。が、その興味を継続できたのは『3分間ネットワーキング』大先生に拠るところも極めて大きい。足を向けて寝られない。

 自己採点では午前はおそらく通っていて、午後はボーダー付近なので怪しい。情報処理の勉強は本当に苦痛以外の何物でもないので、なんとしても受かっていて欲しい。受かってなかったらまた上の画像みたいになります。

 

 

 

youtu.be

 

 思想は多様な視点を含んでいて、それでいて論理的に矛盾がなく、濃ければ濃いほど良い。いや、一般に神様は矛盾しまくりなんだけど、そんなのは曲が良ければどうでもいいのだ。

 

youtu.be

 

 恥も外聞もあったものではないので、こういうのを結構好き好んで聴きます。

 こういう言い方は本当は良くないね。

 

 

 

 明治・大正期に活躍した島村抱月について一時期勉強していたことがあるのだが、この度、生誕150周年を記念して抱月を紹介する特設展示が期間限定で行われるとのことだったので、新宿歴史博物館に行ってきた。

 特に下調べもせずに行ったので、抱月のデスマスクや須磨子に宛てたラブレターでもありはしないかと若干期待していたのだが、小規模の展示だったので特にそういうのはなかった。残念。でも竹久夢二が装丁を担当した『牡丹刷毛』は見れてよかったかもしれない。降りた幕の隙間から女性の目がこちらを見据えている、という表紙で、すなおに良かった。12月中旬までやってるので良かったら見ていってください。

 その他はじめて知ったのは、演劇界では抱月の経営手腕が評価されているということ。たしか岩佐だったか川副だったかは抱月の経営手腕をそんなに評価していなかったと思うので、これは意外だった。松本克平いわく、「後にも先にも演劇で飯が食えたのは芸術座くらいだ」とか。実際、こんなのから分かるように大変な世界なんだろうので、演劇界隈という範囲に絞って見れば手腕が評価されるというのも頷ける。この辺りはうろ覚えで書いているのであまり信用しないでいただきたい。

 

 で。そういえば抱月のデスマスクとラブレターってどこに保管されているんだろうと不意に気になった。流石に捨てたということはないだろうので、早稲田大学か故郷の金城町にでもあるんだろうけど。

 前者は「早稲田文学 島村抱月追悼号」と調べれば、画像を見ることができる。当時はやりのスペイン風邪がもとで苦しんで亡くなったわりには、なんとも安らかな寝顔である。自分は人の死に顔というのをじっくり見たことがないので知らないだけで、死ぬ時は案外みんなこんなものなのかもしれない。

 後者は、たとえば渡辺淳一『女優』などに引用されているので比較的容易に手に取れる。が、これを読み進めるのは一苦労である。黒歴史というやつで、これが世間に公開されているのは流石に可哀想と言うほかない。可哀想なので、一部引用する。

 ……これから手紙はいつでも一番しまいの所を字の上でも何でもかまわないから、べったりぬれるほどキッスして送りっこね。そうすると、受けとったほうでもそこをキッスすることね。毎日十二時の思い、今でもつづけて下さい。

 ……ぼくの手紙は郵便で大丈夫かしら、そうびくびくしてはしようがないけれどもね、今夜は一時近くまでかかって、この手紙を書いて、これからねて、あなたの夢でもみたい。土曜の晩のようなのでなく、うれしいうれしい夢をそして抱きしめて抱きしめて、セップンしてセップンして。死ぬまで接吻してる気持ちになりたい。まアちゃん〔もちろん、松井須磨子のこと:引用者注〕へ、キッス、キッス。*5

 いい歳してこんな文章を書く方も悪い気はするが、これをはじめて世間に公開した人は抱月に殺されても文句が言えまい。

 

 

 

 30日開催の『四季シリーズ完結記念トークライブ』に行ってきた。

 なんか書いてやろうと思ったんだが、書けないことしか話してくれなかったので何も書けない。終わりです。

 

 11月も頑張りましょう。

*1:だからといって、「周囲への感謝を忘れないように」などとしたり顔で諭すのは、やり方として相当醜悪であることを付け加えておく。

*2:小谷野敦『退屈論』河出書房新社、2007年

*3:大塚英志『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』、KADOKAWA、2014年

*4:と思ったんだが、思い返したらCPUの仕組みを調べてるときに「これ何が面白くて読んでるんだ」と途中で投げていた。まあそういうこともある

*5:集英社、2014年