2022年4月 雑記

 直近でプレイした作品(『空の上のおもちゃ』『ギャングスタ・リパブリカ』『ギャングスタアルカディア』『空を飛ぶ、3つの方法。』)について、ツイートするほどでもない思いつきを書いてお茶を濁す。普通にネタバレあるので注意。

 

『空の上のおもちゃ』

 「ペチる」(「パチる」とも)というのは知らなかった。「盗む」という意味の大阪弁らしい。本作のライターは、生まれは北海道ですが大学は大阪なので、そこで知ったのかなーとか。「パチもん」も「パチったもの」ということなんですかね。

 

 このシーン、同ライターによる『缶詰少女ノ終末世界』で「世界の終末に備えて準備したおかげで他の人より少し長く生き延びられたとして、それがなんだというのか?」という問いに対し、「世界の終わりに付き合いたいのだ」という回答が提示されたことと通底する感じがなんとなくある。

 

 『空の上のおもちゃ』最後の画面。流石にもう誰か指摘してると思うけど、『ふゆから、くるる。』でシナリオの最後にアシモフの「In life, unlike chess, the game continues after checkmate.」が引用されたことを彷彿とさせる。

 

 

ギャングスタ・リパブリカ』『ギャングスタアルカディア

 典型的な、〈美少女〉と、その〈美少女〉に根拠を与えてもらう男、の構図。

 主人公の男としての価値は、もろく儚く、そしてそうであるが故に無傷の〈美少女〉に認めてもらうことによって担保されるので、〈美少女〉を傷つけられるわけがない(まあセックスはするんだけども)。本作の主人公は〈美少女〉の想定の範囲内でやんちゃをし、そのやんちゃを〈美少女〉に許されることでその価値を担保している。なので「知らない人ばかり」で「責任取れない」ようなやんちゃをすることはない。作中、主人公は「悪であれ」と宣って反権力・反権威ぶっているが、その「悪」が〈美少女〉という権威に許される程度の幼稚な「悪」でしかないという点は、なにか昨今のSNS上でのオタクの言動を思わせないでもない。

 このような姿勢は端的に言って相当ダサいのだが、これはもう〈美少女〉が好きになってしまったのなら仕方がない。なので隠して生きていこう。我々は堂々と表に出てはいけない。

 

『空を飛ぶ、3つの方法。』

長い! 長いのになかなか面白くならない!

 非処女=穢れた女を男が受け入れる、という構図。今の価値観で断罪するのも良くないのだけど、もはやこういう描写は感動を引き起こすような説得力を持ち得ないなぁ。「お前は何様なんだよ」という感じで、鼻白んでしまう。『最終試験くじら』もそうだったけど、「先輩の全てを受け入れる覚悟がある」と言った直後に「今までの先輩像を全て壊すような辛辣な言葉に、俺は思わず絶句してしまう」のは最悪すぎて笑っちゃう。不誠実だと思います! 少なくとも好感は持てない。そういう意味では、渡辺僚一作品の男キャラはみな好感が持てるな、というのを書いていて思った(これは多くの人に共感してもらえるのではないか)。

 本作が発売されたのは2008年だが、思えば美少女ゲームに限らず、最近の作品でこういう一方的な構図は見ないような気がする。なんかあるかね? もちろん炎上させたいとかではなく、シンプルに興味としてそういう作品があるのかなーということ。

 

このシーン、もう全然関係ないんだけど↓を思い出した。

plaza.umin.ac.jp

 

 

 以上、5月も頑張りましょう。

2022年3月 雑記

 今月は特に感銘を受けたゲームや本がなく(本に至ってはそもそも読めていない)、勉強ばっかりしていて話題もない。片手間にやっていたゲームもなにか言いたくなるようなものがなかったので、今月は何もなし。

 さっさとやるべきことを終わらせたいですね。

 4月も頑張りましょう。

2022年2月 『最終試験くじら』雑感

 基本的に読書して思ったことを雑に書いているわけですが、今月はちょっとサボりすぎて本を読めませんでした。じゃあ何をしていたかというと、『最終試験くじら』をやっていました。

 

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 さすがに有名タイトルだけあってかなり面白かった。シナリオ自体は美少女ゲームに典型的な、世界観を小出しにして想像力を掻き立てる系のヤツで、我々みたいなのは終生こういうのが好きである。

 『ディアノイア』等の楽曲もめちゃくちゃ良い曲だな。OP映像の出来も秀逸で、美少女ゲームでお金が稼げてた最後の時期なのかと妙に悲しくもなった。とにかく良かった。

 また、これは全面的に俺が悪いが、シナリオは春香√からさっぱり分からなくなってしまった。でも分からないなりに面白いんだよな。あれほど意味の分からないシナリオにもかかわらず、ファンディスクどころかアニメ化まで実現したというのは今ではもはや信じがたい。意味不明なテキストにも、というより意味不明なテキストだからこそ金を出していたような人がたくさん居た時代だったということなのか。それが良いとか悪いとか言うわけではないが、そういう、もはや作者本人しか分からないようなテキストを並べた作品が俺はとても好きなので、単に羨ましい。

 というかまずタイトルからしイカしている。なんだ、『最終試験くじら』って。何を食ったらそんなタイトルを思いつくんだ。Final Examination Kujira.

 キャラデザについては時代を感じざるを得ないが、個人的には許容範囲内。これは虚空に向かってしきりに言っているが、俺は2012年前後のひなた睦月の絵がドンピシャなので、ゼロ年代あたりの画風ならそこまで強い忌避感がない。どうでもいいな。

 

 ということで、よく分からないなりに面白かったので少し書きます。以下、もし評論を書くようであれば、さしあたりこのような仮説に基づいて文献に当たるよ、というものです。

 

 

 さて、本作のオープニングムービーを観ると、全体を通してどことなく物憂げな雰囲気が漂っていることが見て取れます。この傾向はテキスト本文においてなおのこと顕著であり、本作に登場するキャラクターはいずれも脆く儚く描かれている印象を受けます。そしてそのようなか弱く庇護されるべき存在としての〈美少女〉は、そうであるが故に〈美少女〉たり得るのだということが言えそうです。

 と、ここまで言ってしまうと直接的ですが、本作に登場するキャラクターは典型的な〈美少女〉に該当するように思います。すなわち、『最終試験くじら』のヒロインはいずれも「傷つきやすさを身にまといながら、しかしそれゆえに決して傷つかない」*1、「男の価値を裏付けてくれる絶対的な存在」*2です。

 そして、本作における「男」とは当然ながら主人公・久遠寺睦くんです。ということで、以降本稿では久遠寺睦くん=おたくという見方を採用して、話を進めます。おたくとしての久遠寺睦くんです*3

 

 久遠寺睦くん=おたくと仮定して考えてみると、本作のオープニングムービー冒頭で流れる「世界は黒くて汚いから せめて 君だけは…」という文言はなかなか象徴的に思えてきます。ここからは、『「黒くて汚い」世界にあって、せめて(真っ白でキレイな)君だけは(そのままでいて欲しい)』というおたくの屈折した心理を読み取ることができます。言うまでもありませんが、ここでの「キレイ」とは性的に汚れていないということです。あけすけに言えば、「君」が「キレイ」なのは処女だからです。この見方がおおむね間違っていないことは、作中に以下のようなテキストがあることからも分かります。

 

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このシーンの睦くん、最悪すぎて何回読み返しても笑ってしまう

 ここで重要なのは、睦くんは、自身もまた「黒くて汚い」世界の一部であると認識していることです(例えば、春香√では睦くんが厭世観を抱えていることが披瀝されています)。「黒くて汚い」世界の一部である久遠寺睦くん=おたくが「キレイ」な〈美少女〉の存在により自身の男としての価値を裏付けてもらう、という構図がここに現出しています。

 

 と、ここまで考えたところで、私は、仮に「君」がくじらの少女を指すのであれば、睦くんとくじらの少女がセックスをすることはないだろうと予想しました。「黒くて汚い」睦くんがセックスなんぞしては、くじらの少女が「キレイ」でなくなってしまうからです。

 ところが、私の予想に反して、睦くんはくじらの少女(南雲さえ?)とあっさりセックスしてしまいました。これはどういうことなのか。

 

 実は、名雲さえ√後半にて、この世界が現実の世界ではなく睦くんの生み出した「不条理な世界」であること、現実の世界では過去に睦くんが無理にさえを外に連れ出した結果としてさえが倒れてしまったこと、睦くんがそのことを強く後悔していること等が判明します。

 自身の欲望を発散させたせいでさえが倒れてしまったという事件を通して、睦くんは自身の暴力性というものに気づいてしまいました。「恋愛というリアリティに向き合ってしまった男の子は、自分が彼女を傷つける者であり、損なう者であるという現実に直面します」*4。そうして直面した自身の暴力性に耐えられなくなり逃げ込んだ先が、かの「不条理な世界」だったということです。

 

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 この「不条理な世界」に登場する南雲さえは、睦くんが生み出した妄想の南雲さえです。現実に存在する南雲さえと妄想の南雲さえとが別の存在であることは、アホ毛の有無から容易に判別ができます。アホ毛のないのが現実、アホ毛のあるのが妄想です(さらに言えば、くじらの少女にはアホ毛がないことから、現実の南雲さえに近い存在だということが示唆されています)。

 したがって、睦くんは現実の南雲さえとセックスをしたのではなく、あくまで妄想の南雲さえとセックスをしたということになります。そしてそうすることによって、現実の南雲さえはいまだ「キレイ」なままでいることが可能になります。

 

 さて、これはよく考えてみると面白い展開です。というのは、現実の南雲さえを傷つけることを恐れて生み出した「不条理な世界」で、結局睦くんは(妄想とはいえ)南雲さえを傷つけてしまっているからです。もっと言えば、睦くんは南雲さえを「黒くて汚い」ものにしてしまっています。

 それでは、なぜ睦くんは妄想の南雲さえを「黒くて汚い」ものにしてしまったのでしょうか。あるいは、しなければならなかったのでしょうか。

 

 結論から言えば、睦くんが妄想の南雲さえとセックスをしたのは、彼女を「黒くて汚い」ものにしたいという暴力的な欲求を満たしたかったからに他なりません。

 睦くんは先の一件を通じて自身の暴力性を自覚するに至りましたが、それを自覚したところで暴力的な欲求がたち消えるわけではありません。ここにおいて睦くんは、自身のうちから湧き上がる暴力的な欲求と、それを現実の他者にぶつけてはいけないという理性的な抑制との矛盾に苦しめられることになります。その苦しみから逃れるため、暴力的な欲求を安全な形で発散させる方途が望まれます。その方途とはなにか? もうお分かりのように、妄想の中の〈美少女〉に対して欲求をぶつけることです。「人間ではなくキャラクターが相手なら、男性は安心して自分の視線をさまよわせ、そこに秘められた暴力性を開放し、思う存分「見る」ことができます」*5。このように、『最終試験くじら』とは、自身の暴力性に気付いた久遠寺睦くん=おたくが妄想の〈美少女〉を汚すことによって暴力的な欲求を満たすことで、現実の〈美少女〉を傷つけないようになんとかやり過ごそうとする物語だということが分かります*6

 

 「不条理な世界」が崩壊する直前、妄想の南雲さえは、睦くんが妄想から飛び出して現実を見つめようとするのを制止します。妄想の南雲さえは睦くんが生み出したものであるため、睦くんの気持ちの代弁者でもあります。なので、このシーンは睦くんの中で現実へ向かおうとする気持ちと妄想の中に留まろうとする気持ちとがせめぎ合っている描写だ、ということができます。なぜそのように葛藤するのかといえば、妄想から離れることによって、妄想に対して発散させていた自身の暴力的な欲求が現実の他者を傷つけてしまわないか心配だからです。

 

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 しかしながら、いつまでも現実を見ないというわけにはいきません。端的に言って、暴力的な欲求を他者にぶつけることを徹底的に拒もうとすれば、生存することができないからです。もちろん、他者へと欲求をぶつけることは可能な限り回避するべきです。しかしながら、私たちは多かれ少なかれ他人に対して暴力的な欲求をぶつけ、またぶつけられる存在です。そのことを覚悟した上で生きなければなりません。それこそが現実に向き合うということの意味ではないでしょうか。

 ということで、この物語はおたくが取るべき生き方の1つのモデルを提示しているということができます。私たちは暴力性を伴う己の身体となんとか上手く付き合っていくしかないのだ、というモデルです。以上、私は本作をそのように読みました*7

 

 と、書いている途中で「なんか違う気がするな……」と思いましたが、さしあたり仮説をたてるとすればこういう方向性かなという感じです。

 今回提示したような見方では説明できない疑問点も当然あって、例えば、女形になれるほどに美形の主人公が「黒くて汚い」というのは矛盾していないか、というのがあります(なので、「黒くて汚い」というのはむしろ仁菜のことを指しており、本作の核は実は彼女なのではないか、と思ったりもします。「汚い」とか「最終試験」というキーワードが頻繁に登場するのも仁菜√ですし)。また、仁菜を含めた他の登場人物をあまりに無視しすぎている点や、そもそも「くじら」とはなんだったのか? という点も説明できていません。というか、そもそもオリジナリティに乏しい。現状ではササキバラの論の当てはめに過ぎないし、付け加えるとしても2000年前後に起きた事件を踏まえただけのありきたりなものになりそう。実力不足がひたすら露呈してしまった。精進します。

 

 3月も頑張りましょう。

*1:ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史:「萌え」とキャラクター』、講談社、2004年、68ページ

*2:同書、50ページ

*3:なお、私としては、ここでの「おたく」とはおおむね2000年以前のおたくを想定しており、いわゆるゼロ年代以降のオタクを含むものではありません。その理由は、1つには本作が2003年に発売された作品であるからです。2つには、後述するように久遠寺睦くん=おたくは自身を「黒くて汚い」世界の一部と捉えているのですが、私にはゼロ年代以降のオタクの多くが自己を「黒くて汚い」ものと認識しているとは思えないからです。

*4:同書、61ページ

*5:同書、181ページ

*6:余談として、本作の1年前に発売された『CROSS†CHANNEL』も、内から湧き出てくる暴力的な欲求と、それを何とかして抑えようとする理性との対立をテーマの1つに持つ作品として読むことができるように思います。発売年が2000年代前半である点、いずれの主人公も美形として描かれている点などの共通点もあり、見えてくるものがあるように思うのですが、私の知識不足のため、いまだ自信をもってなにかを言うことができる段階ではありません。

*7:別論ですが、私たちが多かれ少なかれ〈美少女〉を性的に欲していることは認めざるを得ない以上、私には、その欲求を直接的にしろ間接的にしろ公の場であらわすことに抵抗があります。等身大パネルとかね。なお、「俺は〈美少女〉を性的に欲していない」という抗弁は原則認めません。そんなはずはないからです。

2022年1月 セレプロ雑感/オタクのテーゼ

 

 アニメと美少女ゲームをやる時間はなんとか確保できているが、本にまではなかなか手が届かない。悲しい。かなピーの原罪です。

 以下、辛うじて観たアニメの1つ、『SELECTION PROJECT』の感想。

 

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 実際、11話は途中まで良かったのだ。今まで彼女たちを「推し」ていたオタクらが、『9-tie』として生まれ変わった彼女たちのファーストライブに誰一人として現れなかったのは、セレクションプロジェクトという後ろ盾を失くした彼女たちに一切の価値を認めないからである。

 セレプロの世界でも現実の世界でも、多くの場合「推す」という言葉はその程度の温度感で用いられる*1。つまり、「推す」という行為は多かれ少なかれ行為者のアイデンティティと結びついており、そこで「推される」他者は行為者の身にまとう記号でしかない。だからこそ、「推される」他者に価値がなくなれば行為者は平然と「推す」のを辞め、他に「推せる」他者を探して彷徨い始める。9人を「推し」ていたオタクは、実のところ9人を「推す」という記号を身にまとった自分自身に酔っていたに過ぎない。それこそが「推す」という行為の意味である。

 そして、そんな冷たい現実に直面した9人がいかにして〈リアリティ〉ショーを脱却し、〈リアル〉を確立していくか、という成長を描いた11話は、その途中までは高く評価できると言えよう。しかしながら、結局は9人の〈リアル〉を〈リアリティ〉ショーに回収してしまった時点で、もはや作品としては取るに足らないものになってしまった。セレプロ再開の誘いに対して、9人がセレプロ運営に中指を立てなかったことに本作品の限界が明確にあらわれている。

 また、これは昨今のあらゆるコンテンツにも言えることだが、コンテンツの消費者と提供者とが共犯関係を結んで「感動的な」物語の生成に積極的に参与する、という図式に対する嫌悪感が筆者には強かった。品川駅の炎上広告などより、こちらのほうがよほどディストピアであると思う。なんというか、コンテンツの提供者と消費者はもっと距離をとるべきではないのだろうか?*2

 話をセレプロに戻すが、いくつかの点で進行上の理由付けが弱いとも感じた。そもそも9人全員が地方予選を勝ち残るべくして勝ち残ったという印象が薄い。また、セレクションプロジェクトを全員が辞退するほどにお互いを信じ合うようになるまでの描写も十分だったとは言いがたい。正直に言って、視聴者に物語を受け入れさせるだけの説得力が全体を通して欠けていた。そのような、ある種の軽薄かつ予定調和的な筋立てを通して私たちに薄気味悪さを覚えさせることが制作側の目的であるのなら奏功していたと言えるが、まあそんな目的はないのだろう。

 

 とまあ、それっぽい(しかもとんでもなく古臭い!)ことを書きましたが、結局言いたかったのは、そこそこの面白さであったということでした。なにかしら言いたくなるということはそれなりに面白い作品だったことの証左です。

 もっと言えば、『Naked Blue』が良い曲だったこと、淀川逢生ちゃんが終始可愛かったこと、今鵜凪咲ちゃんの「みんな本当は、こんなはずじゃなかった、って後悔してるんじゃないの?」発言あたりは好きでした。

 あとは、もう全く知らないけど『Naked Blue』はおそらくK-POPっぽいところがあるんだろうと思っていて、リアリティショーという設定も含めて、そういった若者文化を本作がいかに取り込んでいるか、という点から出発するセレプロ考があれば読んでみたいなと思いました。

 

 余談として、「9-tie」は商標出願が拒絶されています(68へぇ~)、確定はしていませんが。

https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-2021-055075/CE71A1E74EFC06001F1ADA4D293AC4F5DF14EBAC2C417C4F10092DA016CC3EDF/40/ja

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J-PlatPat(https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

 ※2022年5月30日追記

 補正で登録されましたね~。KADOKAWAは基本的に補正書による指定商品・役務の削除のみで、意見書反論することはあまりないっぽい。今回のも審判いけば登録できそうですけどね(素人見解)。

 

 

 

 オタクが最近掲げてる「他人の好きなものを否定しない」というテーゼは寛容と融和の姿勢というよりも、(他人にとやかく言われたくないから)相手にとやかく言わないという心性の反映のように自分には見える。そして、そう考えるときに思い出されるのは佐伯啓思『「市民」とは誰か』である。引用する。

 〔引用者注:ヨーロッパ人は〕「個人」の意識が強く、「個人」だけが実在だと考えているから「個」を大切にする、といったこととは違う。しばしば、この「個」の中には、強烈な国家意識や民族意識や地域意識といったものがある。ただそれをいちいち表出しているのではとてもやっていけないのである。

 さらにいえば、こちらがそれを正面に出せば向こうも同じことをしてくる。すると、こちらも常に、他人の敵対を、他人の嫌悪を浴びせかけられることになるだろう。これでは身がもたない。だから、個人主義とは、相手を尊重するというよりもまず、わが身の安全を確保するための便法であるといってもよい。個人主義という相互不干渉のルールをつくっておかなければあぶなくてしかたがないのである。だからヨーロッパ人にとって個人主義が本当に望ましいものなのかどうか実はよくわからないというべきかもしれない。

 オタクが好んで使うTwitterでは気軽に喧嘩をふっかける/ふっかけられることができるので、自然と上のような身の処し方になった、という方が的を射ているように思う。

 

 全然書けなかった! 2月も頑張りましょう。

*1:例えば、『ウマ娘』という巨大コンテンツを「推し」ながら、平然と「推しはライスシャワーだ」と言えるのは何故なのか? そのダブルスタンダードに何かしらの葛藤を抱いたりしないのだろうか? 筆者が真剣に訊ねてみたい質問の1つである。

*2:余談として、筆者はオタクの自己や他者を語る言説にしばしばある種の特権意識のようなものが見て取れることに関心をいだいており、特権意識が芽生える原因の1つに、コンテンツの消費者が半ば提供者としても参与し、その位相が重なるのに伴って「自分たちはギョーカイに精通している」と意識するようになるという事情があるのではないかと考えている。そのような特権意識は、例えば今季アニメ『佐々木と宮野』でも見られるように、「ギョーカイに精通している」オタクが、「ギョーカイに精通」していない非オタクの人々のことを「一般人」と呼ぶといった形で表出する。オタクらは「評論家(笑)」の特権意識には敏感な一方で、自身らの特権意識には鈍感だということがいえるのではないか。

2021年に読んだ本と美少女ゲーム

 2021年に読んだ本は107冊でした。なんとかノルマクリア。

 シリーズものはまとめていたり、複数回読んだものも1冊としてカウントしているので、実際に読んだ数と記録上の数は一致しません。しばしば感想を添えています。

 

1.中里十『君が僕を 1、2』小学館

 

2.赤枝香奈子『近代日本における女同士の親密な関係』角川学芸出版

 

3.九鬼周造『日本詩の押韻』手元になく不明

 

4.隅田正三『「島村抱月」 : 幼年期と生いたち』波佐文化協会

 

5.川副國基『島村抱月―人及び文学者として―』早稲田選書

 著作を読むにあたって、その著者の来歴や当時の背景を知っておくのって大事なんだなあという当然のことを改めて知った1冊。いきなり『囚われたる文芸』に手を出して読めるわけがないだろうが。

 

6.尾崎宏次『島村抱月 日本近代劇の創始者たち=1』未来社

 

7.倫理資料集編集部『倫理資料集』山川出版社

 

8.中島義道『カントの人間学講談社

 

9.石川文康『カント入門』筑摩書房

 

10.正宗白鳥自然主義文学盛衰史』講談社

 

11.井上章一他『性的なことば』講談社

 「百合」という言葉の由来を紹介する際にほぼ必ずと言っていいほど引用される本。百合、というか女性同性愛について少し勉強していた時期に読んだ。百合に限らず知識が雑多に散らばっているので読んでて楽しかった。

 

12.森井ユカ『突撃!オトナの大学院』主婦と生活社

 

13.萩埜まこと『熱帯魚は雪に焦がれる 1~8』KADOKAWA

 

14.森信成『唯物論哲学入門』新泉社

 数年ぶり、たしか4回目の通読。今ではもうそのテキストの全てを承認するわけにはいかないけど、それでも最も影響を受けた本の1つだなとしばしば思う。

 

15.石原千秋『大学生の論文執筆法』筑摩書房

 

16.岡潔『春宵十話』光文社

 

17.神林恒道『近代日本「美学」の誕生』講談社

 

18.安藤宏『日本近代小説史』中央公論新社

 

19.つるまいかだ『メダリスト 1~2』講談社

 フィギュアスケートで世界を目指す少女とそのコーチの話。素の性格が他人と相容れない人とか時代の趨勢に合わなかっただけで適切に評価されない作品とか、そういうものにばかり入れ込みたくなる性格なので、2巻を読んでから完全にミケに肩入れし始めた。

 

20.渡辺淳一『女優』集英社

 

21.中村光夫『日本の近代小説』岩波書店

 

22.村岡晋一『ドイツ観念論講談社

 

23.SFマガジン編集部『アステリズムに花束を』早川書房

 友達に勧められた本。読み終わって「『月と怪物』が一番好きだった」と報告したら

「うわ一番分かんないやつだ」と言われてシュン…となった。『月と怪物』が好きな人は間違いなくこれも好きなので、よかったら読んでみてください。

 

24.酒井健シュルレアリスム中央公論新社

 

25.長谷川宏『新しいヘーゲル講談社

 

26.上野修スピノザの世界』講談社

 いくつか読んだ中では最も平易な入門書だと思う。特にp.116「大気中の……」の説明は非常に参考になった。そんなピンポイントなことあるか?

 

27.三浦つとむ弁証法はどういう科学か』講談社

 

28.ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』講談社

 

29.東浩紀動物化するポストモダン講談社

 

30.工藤喜作『スピノザ清水書院

 

31.苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社

 

32.E.W.サイード『知識人とは何か』平凡社

 

33.ショーペンハウアー『読書について』岩波書店

 

34.内田義彦『読書と社会科学』岩波書店

 

35.國分功一郎『はじめてのスピノザ講談社

 

36.小林康夫 大澤真幸『「知の技法」入門』河出書房新社

 

37.スピノザ『エチカ 上』岩波書店

 

38.スピノザ『エチカ 下』岩波書店

 入門書を数冊読んで意気揚々と手を出したが難しい……。話を聞く限りではかなり魅力的な思想のように思えるので、もうちょっと格闘する(そもそもスピノザに手を出したのは抱月の理論を理解する上で必要だったからなんだけど、当初の目的から完全に逸れた)。

 

39.未幡『私の百合はお仕事です!8, 9』一迅社

 全然面白かったし、矢野は本当に偉いと思うけど、俺が本当に見たかったのは「『私はまた失敗した』とかほざいて陽芽ちゃんと仲直りできず、以後一度も陽芽ちゃんと会わないまま時は流れて30歳になり、社会人として立派に働きつつも、ふとした瞬間に過去を思い出しては(…あの時どうすれば良かったのかなぁ)と学生の頃の淡い記憶を未だに引きずりながら、お茶をする度にそのことについて話し始めるので純加に(コイツまだ言ってるのかよ…)と思われている矢野」だったんだよな…。

 

40.河井徳治『スピノザ『エチカ』』晃洋書房

 

41.上枝美典『「神」という謎』世界思想社

 

42.遠山義孝ショーペンハウアー清水書院

 

43.みかみてれん『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ! (※ムリじゃなかった!?) 3』集英社

 

44.岩佐壮四郎島村抱月の文芸批評と美学理論』早稲田大学出版部

 

45.友利昴『知財部という仕事』発明推進協会

 

46.入間人間『少女妄想中。』KADOKAWA

 

47.島村抱月島村抱月文芸評論集』岩波書店

 現状もっとも安価かつ入手しやすい抱月の評論・論文集。『囚われたる文芸』と自然主義五部作が収録されているのは大きいけど、『審美的意識の性質』とか『美学と生の興味』は収録されていないので、抱月美学の勉強には不十分。誰か『新美辞学』を復刊してくれ…。

 

48.戸田山和久『哲学入門』筑摩書房

 

49.木島泰三『自由意志の向こう側』講談社

 

50.野内良三『日本語作文術』中央公論新社

 

51.ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』岩波書店

 『安達としまむら』の批評をする中でお世話になった本。脳に関する知識を全く持ち合わせていない中で読んだので、よく理解できない部分もままあった。基礎を勉強した上で再読したい。

 

52.梅本克己『唯物史観と現代』岩波書店

 

53.中坊公平中坊公平・私の事件簿集英社

 

54.見田宗介社会学入門』岩波書店

 

55.理化学研究所 脳科学総合研究センター編『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』講談社

 

56.猪口孝『社会科学入門』中央公論社

 

57.アーサー・ケストラー『ホロン革命』工作舎

 抱月とスピノザを多少やっていたおかげで比較的容易に理解できた。もっと早く読んでおけばよかった。

 

58.佐藤勝彦宇宙論入門』岩波書店

 

59.池谷裕二『進化しすぎた脳』講談社

 

60.トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』昭和堂

 

61.大塚英志『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田国男入門』KADOKAWA

 基本的に大塚英志は好き。柳田の自然主義/ロマン主義というレイヤーは、ケストラーの自己主張情動/自己超越情動のホロンと通底する部分があるように思う。「ここではないどこか」を求めるロマン主義と、「より上位の有機体の一部として包摂されたい」という欲求。そういう形で自分の考えの中に組み込むことは可能であるように感じるので、柳田の著作に手を出そうかなという気にしてくれた。

 

62.中島義道『人生を〈半分〉降りる』筑摩書房

 

63.小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社

 

64.きたみりゅうじ『キタミ式イラストIT塾 応用情報技術者技術評論社

 以降、情報系の書籍が続くが、これは諸々の事情で応用情報技術者試験を受ける必要が生じたため。これらを通して情報系に適性がないことを完全に自覚したので、まあ全体としてはいい経験であった。

 

65.長橋賢吾『これならわかるネットワーク』講談社

 

66.岡嶋裕史ハッカーの手口』PHP研究所

 

67.佐藤勝彦『「量子論」を楽しむ本』PHP研究所

 

68.岡嶋裕史『暗証番号はなぜ4桁なのか?』光文社

 

69.入間人間安達としまむら 10』KADOKAWA

 

70.中島明日香『サイバー攻撃講談社

 

71.大塚英志 ササキバラ・ゴウ教養としての〈まんが・アニメ〉講談社

 

72.法制執務・法令用語研究会『条文の読み方 第2版』有斐閣

 

73.小谷野敦『退屈論』河出書房新社

 はじめて氏の著書を読んだ。引用が大量にあり、話もしばしば脱線するので必ずしも文章として読みやすいというわけではないはずなんだが、一方で大塚英志のような読みやすさがあり、読み進めるのが楽しかった。おそらく自分に合った文章ということであって、そういう文章を書く人に出会えると嬉しい。

 

74.金杉武司『心の哲学入門』勁草書房

 

75.本川達雄ゾウの時間 ネズミの時間中央公論社

 

76.千葉聡『進化のからくり』講談社

 

77.大塚英志『物語消費論』星海社

 実は読んでなかったという(今まで何してたんだよお前は)。

 

78.正林真之『知的財産法判例教室』法学書院

 

79.プラトンソクラテスの弁明』光文社

 

80.大塚英志『大学論』講談社

 

81.岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』株式会社ロケット

 

2021年にやった美少女ゲーム

 

1.ねこねこソフト『ルリのかさね ~いもうと物語り~』

 色々とシステムが怪しい。ストーリーは悪くないが、まあこの程度のしんみりした話なら他にもあるかなという印象も強い。楽曲が良い。

 

2.すみっこソフト『はるまで、くるる。』

 

3.同上『なつくもゆるる』

 

4.同上『あきゆめくくる』

 はる→あき→なつ の順にプレイ。いずれも非常に面白く、渡辺僚一に完全にハマった。シンプルにお話が一番面白いのはなつ、SF的にははる。特に後半の怒涛の解説は記憶消してもう一度読みたい。

 

5.ABHAR『水平線まで何マイル?

 う~ん……。類似したコンセプトの『あの晴れわたる空より高く』という作品を以前プレイしたことがあって、それが面白かっただけに、本作は相対的に期待を外れたように感じられてしまった。総重量の軽量化のために朋夏が髪を切ったシーンとかは結構好きだったんだけどね。

 

6.あっぷりけ『月影のシミュラクル』

 無難に良かった、という感じ。悪く言えばそこ止まり。いくつかのEDは割合好きであったし、いい加減ボードリヤールを読まなきゃなーという気分にもさせてくれた(本作はそこまで真剣にシミュラークルを取り扱っているわけではないけども)。

 

7.チュアブルソフト『アステリズム -Astraythem-』

 先に言及した『あの晴れわたる空より高く』を手掛けた制作陣による渾身の一作。『はれたか』がアホみたいに面白かっただけに本作への期待の度合いもかなり高かったのだが、そのハードルも難なく越えてくれた。とりわけ3章の、名月の夢を見る九十九くんには久しぶりにボロボロ泣かされた。ああいうシーンが好きすぎる。バイアスがかかっている可能性を加味してなお、イシダPは紛れもなく鬼才である。

 

8.10mile/PROTOTYPE『カタハネ

 PSvita版をプレイ。中里十の小説みたいな作品だなと思った。作風とかでなく、プレイヤーとの相対的な立ち位置において。ちょっとやらかしの具合が酷すぎるのだが、なんだかんだ言ってワカバが好きだったりする。PC版をやった友人と話して、「これエロいらないどころか邪魔じゃね?」という結論に達した。OPの『Alea yacta est!』もかなり強い。

 

9.bitterdrop『波間の国のファウスト

 面白いんじゃないか、といういつもの頼りない直感が珍しく当たった作品。本当に何の知識も持ち合わせていないけど、もし経済小説が概ねこんな感じなのだとしたら読んでみたいと思える程度には楽しめた。というか早乙女凪が可愛すぎる、こういう女の子一生好きだな…。『ハンティング・グラウンド』は名BGM。余談として、シナリオの佐藤心東浩紀ササキバラ・ゴウ辺りとつるんでいたことがあるらしく、へ〜となった。

 

10.Lass『11eyes -罪と罰と贖いの少女-』

 シナリオライターお三方の惜しみない努力が感じられる世界観および設定に、一昔前の厨二をコーティングした良作。なんだかんだ言って男の子なので、長ったらしい呪文詠唱が好きだったりする。ただ、続編とかOVAを追いかけるほどではなかったかな。ライターの知識が総動員された結果としての雪子の物知りが良かったのと、菊理姉さん(年下)がずば抜けて可愛い。

 

11.NO BRAND『Chrono Box』

 あんまり合わなかった。グロがだめ、とかそういうことではなく、端的にストーリーが期待していたほど面白くはなかった。こういうテーマだと評価が両極に転びうるから、得てして難しいね。

 

12.The Dungeon In Yarn『trade▼off』

 フラグ管理が割と大変なんだが、それを補って余りある面白さだった。足掛け10年近くかかった労作とのことで、よくぞ作りきってくれたという感じ。やはり佐倉あすみが可愛い。夕子ルート後半は特に、これが”いい女”ってやつか…となった。オールクリア後、「最初から」を押して改めて読む『……ずっと、こうするつもりだったから……』は流石に壮観。

 

13.KAI-SOFT『青い空のカミュ

 主人公2人の教養がすごい。制作陣いわく「アートとしての美少女ゲームを目指した」本作は、部分的とは言え、たしかにその心意気が伝わってくる出来だった。一方で、内に込められた思想は残念ながらあんまり響かなかった、ないし理解出来なかった。まあそういうこともある。

 

14.ニトロプラス『スマガ』

 長過ぎるッピ! なんというか、予想していたのと大分違ったんだが文句は言うまい。ループものの見どころたるシンプルなトライアンドエラーは良かった、もうちょっと試行回数が多ければさらに良かった(2000回では少なすぎると感じるのは渡辺僚一に毒されすぎか? 実際にお前がやってみろという話である)。あと当然のように楽曲群が軒並み強い。How far is it to his goal? 素直にやって良かったなという余韻が残る作品ではあったが、エンディングだけがネックだった。都合が良すぎるというのではなくて、あれは死を受容するまでの過程なんだから、殺したほうが絶対に良いと思う。続編ファンディスクが百合っぽいのでちょっと気になっている。気が向いたらやるかもしれないし、やらないかもしれない。

 

15.SILKY'S PLUS『ふゆから、くるる。』

 太陽の天才児・渡辺僚一によるSF四季シリーズ最終作。最終作にふさわしい圧巻の出来であった。単純な面白さで言えばはる、なつには一歩及ばないんだけど、最も印象に残った作品で言えば間違いなくこれ。ロマン主義と絡めて長めの文章をいずれ書きたい……。

 

16.スカイフィッシュ『はるかぜどりに、とまりぎを。』

 何が悪かったのかよく特定できないんだが、あまり肌に合わなかったためかなり序盤で切ってしまった。美少女ゲームは「あらすじやムービーでは良さそうだなと思ったが実際にプレイしてみるとそうでもない」というケースがなぜかアニメに比べて多いのだが、本作もその1つだった。直感とプレイしてみての感覚を一致させるための礎にしてしまったなぁ。

 

17.Whirpool『pieces/渡り鳥のソムニウム』

 ほぼ同上と言っていい。小鳥遊紬√だけ終わらせて合わなかったので切った。この子のCV.小鳥居夕花感は異常。

 

18.暁WORKS『ハロー!レディ』

 評判が良くてセール中だったので購入。完全に釣られた。主人公をカッコいいと思うか否かが決定的な分かれ目なんだろうなと思う。レトリックというか、語彙や言い回しが大仰な割に思想は大したものではないという印象が拭えず、空子√を途中までやった後、続ける意義を見いだせなかったので切った。ヒロインは割とみんな可愛い、これが一番大事。サブカルチャー

 

19.半端マニアソフト『indigo』

 シナリオが渡辺僚一ということで購入。作中で描かれる戦闘は基本的に遭遇戦なので、ストーリーを読み進めるにも常に一定の緊張感がある。『なつくもゆるる』でも思ったが、渡辺僚一の描く戦闘シーンは心理戦+技術のやり取りが主軸で、そのヒリヒリする感じが非常に良い。その他にも先述したSF四季シリーズのエッセンスを各所に感じた。つまり、仕組みを知らなくても電子レンジは使えるし、先祖返りしたマンイーターは人間を喰らうし、アストロラーベオートマトンは常識を超えているし、殺人鬼の女の子は可愛いのだ。あと、西井さんがもう笑っちゃうくらいカッコいい。

 

20.FlyingShineCROSS†CHANNEL

 名作と呼ばれるだけあって、流石に面白かった。感想は11月の雑記に書いたので割愛。

 

21.Chelseasoft『ソラコイ』

 方向性は決して悪くない(むしろこういうのが好みである)んだが、なんたって感情描写が薄すぎる。ソラがいかに主人公を好いていたかを描くことでこそ、最後のシーンでカタルシスが爆発するというものだろうに。そういう意味で、上述の『アステリズム』がカタルシスの仕込みに1章を費やしたのは良い判断だったなと。上手く料理すれば秀作たり得ただけに非常に残念ではあるが、ワンコインならまあ許容範囲かなという感じ。少なくとも『スマガ』よりは良いエンディングだった。あと、わざわざ映画を題材として取り上げた割にライターの知識が薄い点は気になった(勿論、そこは主題ではないけれども)。

 

22.SukeraSparo『ことのはアムリラート』

 う~ん……。良くも悪くも百合だったというか、百合でしかなかったというか。正直思うところがない。3つあるEDの中で、2人で一緒に元の世界に戻るEDだけTrue扱いしてるのは正直モヤッた。そりゃそうなるのが一番良いだろうけど、それすら克服するのがロマンティック・ラブではないのか…? リンとレイさんとで微妙に日本語が通じない点など、変なところ細かいなと思っていたら、どうやらシナリオライターが『カタハネ』を書いた人だったらしく納得。定期的に「やはり自分は百合に向いていないなあ」ということを確認している。

 

23.SILKY'S PLUS『缶詰少女ノ終末世界』

 これまでにいくつか渡辺僚一作品をプレイしてきたわけだが、その中でも上位に食い込む面白さだと思う。つくづく思うが、やはり日常からシリアスへと急変する際の緊張感の演出が非常に上手い。特にミサイルサイロでの一連の話は読んでいて思わず息を呑んだ。巷では、本作品にSF四季シリーズらしさを期待すると裏切られる、という意見があるらしいが、まったく同意しかねる。むしろ過去作に暗示されているロマン主義(「ここではないどこか」に行きたい、大きなものに巻き込まれたいという欲求)が、本作ではかなり直接的に描かれているのも加味して、SF四季シリーズの延長線上にある作品だと感じたがなぁ。また、本作品同様、『ふゆから、くるる。』にもふたなり要素が出てくるし、『あきゆめくくる』では、反政府活動で睾丸を失った過去を持ち、性的少数者の象徴であるレインボーカラーを身にまとう襷ノアが登場するなど、(これらをひとまとめにくくっていいのか、という問題はいったん置いておき)最近の氏の作品には身体的な性と精神的な性の乖離・不一致という要素が散見されるように思う。この辺り、何かしらに影響を受けたのではないかと邪推しており、このことについて前のイベントで訊いておかなかったことを後悔している。

 

24.暁WORKS『スイセイギンカ』

 普通オブ普通。なにもかもが可もなく不可もなしの及第点。何としてもこの作品を描きたいんだという熱意が見えてこなかった(こういう印象論は唾棄すべきではあるが、まあそう思ったのである)。本作を通して、プレイする美少女ゲームの判断基準はメーカーやシナリオライターに置くべきなんだなということを理解した。つまり、『ハロー!レディ』が刺さらないなら他の暁WORKS作品も同様の可能性が高いと考えて良さそう(暁WORKSに限らず、全てのメーカーについてということね)。あとは阿見さんが可愛いです。

 

 来年もちょっと他にやることがあるので中々手が出せないかもだが、本100冊と美少女ゲーム30本あたりをノルマにしておこうと思う。

2021年12月 雑記/「怪文書」というポーズについて

 

 前座

 

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 1点届かず不合格でした。コーナーを攻めすぎてクラッシュ。瞬足許すまじ。

 もう本当に、心の底から面倒くさい。洒落にならないくらい面倒くさい。なんでお前に時間割かないといけないんだよ。いや必要があるからしょうがないんだけど。二次的な意味しか持たないものに時間と労力を持っていかれるのキツい。うあー、もう。仕方ないのでまた勉強して試験受けます。

 

 助けて!(空丘夕陽)

 

 

 

 ウマ娘怪文書というのが一時期流行った(もしかしたらまだ流行っているのかも)。

twitter.com

 まあ上のようなものだ。

 このような二次創作は、一般に「怪文書」と呼ばれる。この場合、「怪文書」とは「恐怖や混乱を煽ったり、犯罪を告知する目的で出される出所不明の文書」という原義的な意味では当然なく、「妄想によって産み出された、キャラクターにまつわる気味の悪い二次創作」というほどの意味で用いられる。そして、この意味で「怪文書」を用いる場合、「怪文書」を書いた人はそれを読む人にその奇怪さを笑ってもらう意図がある、ということが暗黙の了解とされている。

 

 ここでの私の関心は、自身の二次創作を自ら「怪文書」と呼んでいる点にある。

 はじめて「ウマ娘怪文書」を目にしたときは、「自分の好きなものを真剣に好きと言うことがはばかられるために自身の文章を『怪文書』と称し、自分のこの異常な営みを笑って下さい、というポーズを取らざるを得ないなんて、誰がこんな悲しい社会にしてしまったんだ」と思ったものだが、しかしながらこのような見方は正しくない。「こんな悲しい社会」は今に限ったことではないのである。

 つまり、ある対象に真剣であるがゆえに、かえってこれを笑いのネタにしてしまうという現象は、どうも近年に限らず以前から見られるものであるらしい。

 以下は、大塚英志『システムと儀式』*1からの引用。

 人生について真面目に考えること、が恥かしいこととされ、真剣さが揶揄の対象となってしまうのがここ数年の風潮だとされてきた。確かに森田健作はギャグとして復活し、「元気が出るテレビ」では高校生たちが青春ドラマごっこを演じ、大映ドラマは「笑い」の代名詞とされてしまった。真剣さをつかまえてギャグにしてしまう、というパターンの笑いは確かに定着した。

 ……けれども例えば森田健作アナクロな発言に半ばあきれつつも、だからといて視聴者すべてがこれを本当に〈ギャグ〉として受けとっていたかといえば決してそうではあるまい。心の奥底では「青春」という言葉を臆面もなく口にできる森田健作に共感していたに違いないのだ。真剣さやメッセージというものに彼らはとても飢えていて、だからこそ、これをギャグにしてしまうという形で(ちょうど好きな女の子のスカートをめくって泣かせてしまうみたいに)過剰に反応してしまったと考えたほうが正解に近い。

 また、ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史*2より引用。

……ちょうど七八年頃からは「三流エロ劇画ブーム」と呼ばれる、ポルノグラフィとしてのまんがに特化した雑誌のムーブメントも起きており、そこでは多くの描き手が新しい表現を模索していましたが、どれも基本的にリアルタッチの劇画に可能性を求めていました。それに対して、吾妻をはじめとする『シベール』の描き手たちは、手塚治虫以来の抽象性の高い「まんがっぽい」「かわいい」絵柄を使ってそのままセクシャルなもの――セックス可能な身体を描こうと試みていたのです。

……ロリコン同人誌で行われていたのは、単純にポルノグラフィを描くということではなく、それを通じてそのような価値転換を表現することそのものでした。

 ただし注意しておきたいのは、このような表現自体が、当時はお遊び感覚やパロディ感覚の入りまじった空気の中で行われていたということです。

 『シベール』以降ロリコン同人誌が増えるにしたがって、お遊び気分で意図的にセクシャリティを拡張してみせるさまざまな動きは拡大します(欲情できないようなものにまでわざと欲情してみせようとする、それらの変態的な内容は、ビョーキとよばれていました)。

 同じ現象は手塚治虫にも見られる。『教養としての〈まんが・アニメ〉*3で大塚は、手塚治虫終戦直前の昭和20年6月10日頃に大学ノートに描いたとされる『勝利の日まで』を以下のように読む。

 ぼくが『勝利の日まで』を単なる戦争風刺まんがだとは思わないのはこの点です。なるほど手塚治虫少年は当初は目の前の戦争という現実を、彼が「体験」した戦前のまんがのキャラクターを動員することで笑い飛ばそうとしたのかも知れません。そういう古典的なまんが表現の技術によって戦争という現実に抗おうと試みたともいえるでしょう。

 このように、真剣さをギャグに転換するという営みは時代を問わず行われていることが分かる。

 

 さて、なぜ私たちはそんなことをするのか?

 結論から言えば、上にあるように「現実に抗おうと試み」ているわけである。手塚治虫は「戦争」に抗おうとし、オタクは「(世間一般からみて常識的ではないものに対する)好きという気持ち」に抗おうとしている。

 しかしながら、その抗おうとする現実には深刻さに大きな乖離があるわけであって、それらは程度の差であるとは言え、同じ水準で語られていいものなのか、ということについては甚だ疑問である。とりわけ現在はアニメ等のコンテンツが世間においても大いに注目を浴びており、直接的な嫌悪感を示す人々は以前と比べて極めて少なくなったと言っていい。このような現況にあって、オタクは被差別側であるという意識は被害妄想に近いものであり、わざわざ抗おうとするほどのものでもない(当然これは一般論であり、個別具体的に見ればオタクであることを理由に何らかの被害を受けている人々がいるであろうことは認める)。そのため、オタクは「好きという気持ち」に抗おうとしている、と短絡的に結論することには違和感がある。

 

 この違和感については大塚がすでに書いてくれていた。

 「文壇」の文学がぼくにとって気持ち悪かったのは、彼らの小説の技術が彼らの吐き出したものをマッチポンプの如く肥大させていくものとしてある気がしたからだと今は冷静に結論できる。夏目漱石にせよ大江健三郎にせよ、自身の中の「抑え難いもの」を飼い馴らそうとする「文学」が一方にあるのは確かだが、現在の「文学」はその多くが、そもそも「抑え難いもの」を土台にしていない。その点では普通の人々と変わらないのに、それを「ある」ように見せ、そしてそれをマッチポンプの如く肥大させる術としてある。むりやり「抑え難いもの」を作家がつくっている、という印象さえある。*4

 この文章を読んだ時、私には真っ先にTwitterの「オタク」が思い浮かんだ。彼らはしばしばSNSで「狂う」だの「闇が深い」だの言ってるが、なにもみな本気でそう思っているわけではないのは明白である。彼らはSNS上で自らを「狂っている」ように演出しているに過ぎない。

 つまり、なんでもない。オタクを差別する世間という仮想敵に抗って、ただ「怪文書」と称し狂気を演じていたに過ぎなかったわけだ。そもそも、物心ついたときにはアニメやまんがに囲まれて楽しく友人と語り合い、「世間からの疎外や葛藤」も『「なんで自分はこんなものが好きなんだ」という問題意識』*5も経験してこなかった第3世代以降の「オタク」が「抑え難いもの」など持っているはずもなかった。

 「狂っている」という熱狂の中に自らを放り込み、同じく「狂っている」「闇が深い」友人とその感覚を共にすることによって安心したり、「通常」と「異常」の境界線を再確認したり、もっとシンプルに言えば遊んでいたわけだ。実際に狂っているわけでも、闇が深いわけでもなく、深刻な抑え難い悩みを抱えたり抗いがたい現実に対峙しているわけでもない。私たちは「通常」と「異常」の境界線の上を反復横とびして遊んでいるに過ぎない。

 

 結局なにが言いたいのかというと、最近「オタク」を嫌いになっている、という同族嫌悪の告白がしたかったわけである(なお、大塚の引用が多いのは単に筆者の趣味です)。

 

 

 俺自身マッチポンプをやってしまっていたし現在も無意識にやってしまっているので、これについて云々する資格はない(すでに前座でやってるしね)。そもそも、そういったマッチポンプを自然に受け入れて楽しんでいる人に口を挟むのは無粋だし、はっきり言って迷惑である。

 ただし、それを自分がやっていることはマッチポンプであることを意識しているといないとでは全然違うでしょう。加えて、最近は、こんなマッチポンプを若いうちからやっていてどうするのか? という気持ちも強い。このマッチポンプには流石に意味がなさすぎる。いや、私たちが生まれてから死ぬまでに経験するすべてのことに目的的な意味がないことなんかは分かっている。にしたって、他にもっとやるべきことが誰しもあるはずだろう。俺にもあると信じたい。

 つまり、あらゆるものが複製であることを受け入れるのはもうちょっと歳をとってからでもいいんじゃないのか、と思う。もうちょっと真正でいたいし、真正でいようとする努力の中でしか真正でいられないのであれば、俺はそれを肯定する(青いとか煽ったら化けて出ます)。

 この辺りの気持ちは抱月に影響を受けているなぁという感じがする。今やっていることが終わったら一から著書を読みたい。

 

 

 

 先月、加害性について考えてるだの何だの言ったがあまりまとまっていない。とりあえずこんな感じ。

 

・ヒト扱いとモノ扱い

 一般論として、人をヒト扱いするよりもモノ扱いする方が興奮する。これは説明しなくても分かるだろうので割愛する。

 同様に、物をモノ扱いするよりもヒト扱いする方が興奮する。これは擬人化を想定している(もちろん何にでも例外はあって、ベルリンの壁エッフェル塔と結婚した人は存在する。あくまで一般論として、物そのものに発情する人は少なく、物をヒト扱いする方が興奮を惹き起こしやすいという話)。

 人や物それ自体ではなく、人のモノ扱いや物のヒト扱いという歪みに興奮しているのである(こういうものを「過程」の話と呼んでいる)。

 

・一定の条件で評価が逆転し得る

 たしか『缶詰少女ノ終末世界』だったと思うが、「人間をモノとして認識した上で殺すよりも、ヒトと認識した上で殺す方が精神力を必要とする」というような文章を読んで、少し考えさせられた。たしかに後者は前者よりも狂気の度合いが強く、その実行のために要請される精神的な強さの度合いもより高いような感じがする。

 1つ1つの行為を単純に数え上げる加点方式であれば、前者の方が加害性は強い。前者は「モノ扱い」で+1点、「殺害」で+1点、合計2点。後者は「殺害」で1点のみ。しかしながら、「モノ扱いした上で殺害」と「ヒト扱いした上で殺害」を比較した時、後者が要する精神力の度合い(=狂気の度合い)は前者のそれを上回るように感じる。ただし、あくまで人間が人間を殺害するという関係においてのみ狂気の度合いが高いように感じられることが重要(例えば主体や客体の一方がヒト以外であれば狂気の度合いは下がる)。

 つまり、加害性と狂気の度合いは単純に比例するものでもないっぽいね、ということ。

 あんまり深まらなかったです。

 

 

 2022年も頑張りましょう。

*1:筑摩書房、1992年

*2:講談社、2004年

*3:講談社、2001年

*4:『大学論』、講談社、2010年

*5:岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる 電子版』、2014年、ebook-Kindle

2021年11月 雑記

 

 存在しない美少女ゲームのタイトル

 

 ・『LAGOON』

 間違いなくSFですね。巨大都市・ラグーンで渦巻く陰謀と蠢く闇にかかわってしまった1人の少年が、仲間たちとともに強大な敵に立ち向かう感じの話。設定の辻褄に賛否両論はあれど、ストーリーが壮大かつ感動的なのでおおむね良い評価を受けていそう。

 

 ・『めいどの流儀!』

 一人暮らしの主人公のもとに突如メイドがやってくるドタバタコメディ。ギャグかと思いきやちょっと泣かせる展開もあるなこれは。売れてなさそう。

 

 ・『Stella Festa!』

 あらすじ「○○高校の文化祭 Stella Festa には、星が降る後夜祭の日に告白が成功すると、成立したカップルは永遠に幸せになれるという噂がある。そんな噂とはまるで縁のない主人公・○○がある日空を眺めていると、流れ星とともに女の子が落ちてきた!? ステラと名乗るその女の子には、不思議な秘密があって……」とかだろ。言ってしまうとありがちな感じではあるから、こういうのが好きな人は好きだし、見飽きてる人は見飽きてるしで評価が割れてそう。

 

 なんか全体的にセンスが古いな…。

 

 

 

 読み込む という言葉があると思うが、俺はこれを「作品に自分の思想や感情を見出すこと」という意味で使っている。たとえば、「私はこの作品に両立論を読み込んだ」というとき、「私はこの作品を両立論的に解釈することが可能(ないし解釈すべき)だと思う」というふうな感じ。

 で。面白いというかなんというか、何故か自分はこのような 読み込む の用法を一般的なものだと割と長い間思っていた。というか、今でも一般的な用法なのか俺の恣意的な用法なのかがハッキリしていない。誰も文句言ってこないから一般的な用法だと思って勝手に使っている(し、自分の中でかなり座りの良い語なので、これを使わないということができそうにない)。

 

 「共感する」ではダメなのか、というのがあると思うが、これはやや受動的にすぎる感じがする。「読み込む」には「熟読する、データを移す」というような意味があるからか、自分の情報を対象(作品)に映写するという感じが出てきて、能動性が強くなるような気がする。で、そのイメージを好ましく思って、「思想を読み込む」という言い回しを使っているのかもしれない。

 そもそも、あらゆるものは他者との関係において規定されるとか、人は自分以外のものを通してのみ自分を知るというような考えを採用していることが、上のような 読み込む の用法に違和感を覚えない上で大きな役割を果たしているように思う。自分以外のものにこそ自分が表れるとかなんとか。ここらへんはオナニーなのでどうでもいい。

 

 特になにか言いたいというわけではなく、読み込む って一般的な用法じゃあないのかもなあと思って、気の向くままに書いただけです。皆で使おう。

 

 

 

 私たちが「好奇心などという、無駄で非生産的で、もっていると不利としか思えぬ性質」を持つのは何故か、という疑問を説明する有力な仮説の1つとして、千葉聡は「好奇心が強いことによる目先の不利益を、それによって得られる長期的あるいは大局的な利益が上回る」というものを挙げている*1。いわく、「好奇心を働かせて吸収した情報や知識は、……環境が大きく変わった時、危機を回避したり、食物を確保したりするのに役立ち、子孫を残す上で有利になっただろう」。

 

 こういった食物の確保や子孫繁栄といった実利にとどまらず、もっとずっと広範な(むしろ個人的な?)領域でも同じことが言えるんじゃないか、と思う。

 つまり、短期的にはそれがどんなに悪いことであったとしても、新しくものごとを知るということそれ自体が、長期的にみたら当人にとって必ず良いことである、と言えやしないか?

 1つくらい反証があるだろうと考えているんだが、あんまり思いつかないのだ。それを知っていることがあらゆる時、状況又は場合において絶対に悪いことであるというものは存在するのか? なんか思いつきませんか?

 

 1つの単純な例として、余命宣告を考えてみる。

 余命宣告というのは、まあ大抵の場合、短期的には最悪だと言っていいだろう。医者から突然「あなたの命はもって数ヶ月です」と言われたら、誰だって狼狽し、当惑し、嘆き、怒る。

 一方で、時間がありさえすれば、そういった悲劇すらも私たちは乗り越えてしまうらしい(ここでキューブラー・ロスでも引用できたらカッコいいんだろうが、勉強不足で読んでいないから引用できない)。多分、多くの人は「時間さえ貰えれば、自分の死を受容できそうだ」という感覚を持っているだろう。死は、短期的には最悪でも長期的には大したものではないようである。

 死というものは、それを知ったところで、長期的に見て大した脅威ではない。それどころか、自身の死を受け入れて死期を知ることで、むしろ自身の死への準備期間が手に入ることになる。そう考えた時、余命を知ることは良いことですらあるのだ。もちろん、死を受容するまでに死なないことが条件であるが(それが長期的ということである)。

 

 知ることそれ自体が悪いことなどあるのかについて、もうちょっと考えた方が絶対良い(たとえば「退屈」を知るのはそれ自体として悪いような気もする)んですが、月終わりに差し掛かって興味が薄れてしまったので終わりです。

 今は加害性(人をモノ扱いしたい欲求とか)について興味があるので、来月はそんなことを書いてると思います。眠いので終了。

 

 

 

 『CROSS†CHANNEL』をやった。

 どうせ山辺美希が一番人気だろ。俺は知っているんだ。分かるよ、可愛いもんな。

 

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 このシーン観たとき、とてもホッとしてしまった。

 

 ところで、本作は『はるまで、くるる。』と似ているという指摘がままあるらしい。

 まあ言わんとせんことは分かる。たしかに、個々の要素に分解、還元すればいくつか共通項が見つかるとは思う(冬音と美希とか、血を見て動揺するとか)。

 ただ、そりゃ作品なんかごまんとあるのだから、設定がある程度似通った作品だってあるだろう。まあでもそんなことはどうでもいい。というのは、両者はたまたま似ているに過ぎないのではなく、決定的に違うように思うから。

 

 『はるまで、くるる。』と『CROSS†CHANNEL』の決定的な違いとは、中心的なテーマが違うということ。

 前者は(これはSF四季シリーズを通して言えることだと思うが)、割と徹底してロマン主義なのだ。ロマン主義の根底には、現状に対する強い不満がある。その不満をバネにして「ここではないどこか」へ行こうとし、理想郷を夢想し、より大きな広がりを求め、圧倒的なものに巻き込まれること、包摂されることを願う。で、なんでそんなことをするの? そんなことをしてなにが良いの? 生きるってなに? 死ぬってなに? というのをテーマに据え、下ネタとSFを交えつつ描かれたのがSF四季シリーズだと言っていいように思う。

 一方、後者はコミュニケーション云々をテーマにしている(と筆者は理解した)。平たく言えば、「他人とコミュニケーションを取るときの適切な距離というのは人によって異なるので、それぞれが自分にとっても相手にとっても心地いい距離はどのくらいであるかをよく考えてコミュニケーションを取りましょう」という話だと受け取った(別にここまで教訓めいた言い回しをしなくてもいいんだけど)。で、黒須くんにとってはあれが1番適切な距離の取り方であったと。相手を傷つけず、自分も傷つかず、見返りを求めることがなく、それでいて緩くつながっている(と自分が信じていられる)距離。そういうものを読み込める。少なくとも筆者は読み込んだ。

 総括すると、『CROSS†CHANNEL』普通に面白かったです。これから1ヶ月くらいは「ミキミキです!」って言ってから話し始めると思う。それぐらいの面白さ。

 

 考えてみると、上記の黒須くんの立場は、筆者が先月書きかけた「行為の原子性」の立場とかなり近いように思う。一応言っておくと、決して本作品に影響を受けて「行為の原子性」を思いついたわけではない。

 実際に本作品がそのようなことを言っているのか。それとも、筆者が本作品に「行為の原子性」を読み込んだのか。どちらもある程度ただしいんだろうな。

 

※追記(2022年1月5日)

 『四季の資料集』を読んで、『はるまで、くるる。』の元ネタが『CROSS†CHANNEL』であると明言されていることを知りました。自分の勉強不足で、憶測で適当なことを書いてしまい申し訳ないです。自分への罰として上の文章はそのままにしておきます。大変失礼いたしました。

 

 

 12月も頑張りましょう。

*1:『進化のからくり』、講談社、2020年