2021年12月 雑記/「怪文書」というポーズについて

 

 前座

 

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 1点届かず不合格でした。コーナーを攻めすぎてクラッシュ。瞬足許すまじ。

 もう本当に、心の底から面倒くさい。洒落にならないくらい面倒くさい。なんでお前に時間割かないといけないんだよ。いや必要があるからしょうがないんだけど。二次的な意味しか持たないものに時間と労力を持っていかれるのキツい。うあー、もう。仕方ないのでまた勉強して試験受けます。

 

 助けて!(空丘夕陽)

 

 

 

 ウマ娘怪文書というのが一時期流行った(もしかしたらまだ流行っているのかも)。

twitter.com

 まあ上のようなものだ。

 このような二次創作は、一般に「怪文書」と呼ばれる。この場合、「怪文書」とは「恐怖や混乱を煽ったり、犯罪を告知する目的で出される出所不明の文書」という原義的な意味では当然なく、「妄想によって産み出された、キャラクターにまつわる気味の悪い二次創作」というほどの意味で用いられる。そして、この意味で「怪文書」を用いる場合、「怪文書」を書いた人はそれを読む人にその奇怪さを笑ってもらう意図がある、ということが暗黙の了解とされている。

 

 ここでの私の関心は、自身の二次創作を自ら「怪文書」と呼んでいる点にある。

 はじめて「ウマ娘怪文書」を目にしたときは、「自分の好きなものを真剣に好きと言うことがはばかられるために自身の文章を『怪文書』と称し、自分のこの異常な営みを笑って下さい、というポーズを取らざるを得ないなんて、誰がこんな悲しい社会にしてしまったんだ」と思ったものだが、しかしながらこのような見方は正しくない。「こんな悲しい社会」は今に限ったことではないのである。

 つまり、ある対象に真剣であるがゆえに、かえってこれを笑いのネタにしてしまうという現象は、どうも近年に限らず以前から見られるものであるらしい。

 以下は、大塚英志『システムと儀式』*1からの引用。

 人生について真面目に考えること、が恥かしいこととされ、真剣さが揶揄の対象となってしまうのがここ数年の風潮だとされてきた。確かに森田健作はギャグとして復活し、「元気が出るテレビ」では高校生たちが青春ドラマごっこを演じ、大映ドラマは「笑い」の代名詞とされてしまった。真剣さをつかまえてギャグにしてしまう、というパターンの笑いは確かに定着した。

 ……けれども例えば森田健作アナクロな発言に半ばあきれつつも、だからといて視聴者すべてがこれを本当に〈ギャグ〉として受けとっていたかといえば決してそうではあるまい。心の奥底では「青春」という言葉を臆面もなく口にできる森田健作に共感していたに違いないのだ。真剣さやメッセージというものに彼らはとても飢えていて、だからこそ、これをギャグにしてしまうという形で(ちょうど好きな女の子のスカートをめくって泣かせてしまうみたいに)過剰に反応してしまったと考えたほうが正解に近い。

 また、ササキバラ・ゴウ〈美少女〉の現代史*2より引用。

……ちょうど七八年頃からは「三流エロ劇画ブーム」と呼ばれる、ポルノグラフィとしてのまんがに特化した雑誌のムーブメントも起きており、そこでは多くの描き手が新しい表現を模索していましたが、どれも基本的にリアルタッチの劇画に可能性を求めていました。それに対して、吾妻をはじめとする『シベール』の描き手たちは、手塚治虫以来の抽象性の高い「まんがっぽい」「かわいい」絵柄を使ってそのままセクシャルなもの――セックス可能な身体を描こうと試みていたのです。

……ロリコン同人誌で行われていたのは、単純にポルノグラフィを描くということではなく、それを通じてそのような価値転換を表現することそのものでした。

 ただし注意しておきたいのは、このような表現自体が、当時はお遊び感覚やパロディ感覚の入りまじった空気の中で行われていたということです。

 『シベール』以降ロリコン同人誌が増えるにしたがって、お遊び気分で意図的にセクシャリティを拡張してみせるさまざまな動きは拡大します(欲情できないようなものにまでわざと欲情してみせようとする、それらの変態的な内容は、ビョーキとよばれていました)。

 同じ現象は手塚治虫にも見られる。『教養としての〈まんが・アニメ〉*3で大塚は、手塚治虫終戦直前の昭和20年6月10日頃に大学ノートに描いたとされる『勝利の日まで』を以下のように読む。

 ぼくが『勝利の日まで』を単なる戦争風刺まんがだとは思わないのはこの点です。なるほど手塚治虫少年は当初は目の前の戦争という現実を、彼が「体験」した戦前のまんがのキャラクターを動員することで笑い飛ばそうとしたのかも知れません。そういう古典的なまんが表現の技術によって戦争という現実に抗おうと試みたともいえるでしょう。

 このように、真剣さをギャグに転換するという営みは時代を問わず行われていることが分かる。

 

 さて、なぜ私たちはそんなことをするのか?

 結論から言えば、上にあるように「現実に抗おうと試み」ているわけである。手塚治虫は「戦争」に抗おうとし、オタクは「(世間一般からみて常識的ではないものに対する)好きという気持ち」に抗おうとしている。

 しかしながら、その抗おうとする現実には深刻さに大きな乖離があるわけであって、それらは程度の差であるとは言え、同じ水準で語られていいものなのか、ということについては甚だ疑問である。とりわけ現在はアニメ等のコンテンツが世間においても大いに注目を浴びており、直接的な嫌悪感を示す人々は以前と比べて極めて少なくなったと言っていい。このような現況にあって、オタクは被差別側であるという意識は被害妄想に近いものであり、わざわざ抗おうとするほどのものでもない(当然これは一般論であり、個別具体的に見ればオタクであることを理由に何らかの被害を受けている人々がいるであろうことは認める)。そのため、オタクは「好きという気持ち」に抗おうとしている、と短絡的に結論することには違和感がある。

 

 この違和感については大塚がすでに書いてくれていた。

 「文壇」の文学がぼくにとって気持ち悪かったのは、彼らの小説の技術が彼らの吐き出したものをマッチポンプの如く肥大させていくものとしてある気がしたからだと今は冷静に結論できる。夏目漱石にせよ大江健三郎にせよ、自身の中の「抑え難いもの」を飼い馴らそうとする「文学」が一方にあるのは確かだが、現在の「文学」はその多くが、そもそも「抑え難いもの」を土台にしていない。その点では普通の人々と変わらないのに、それを「ある」ように見せ、そしてそれをマッチポンプの如く肥大させる術としてある。むりやり「抑え難いもの」を作家がつくっている、という印象さえある。*4

 この文章を読んだ時、私には真っ先にTwitterの「オタク」が思い浮かんだ。彼らはしばしばSNSで「狂う」だの「闇が深い」だの言ってるが、なにもみな本気でそう思っているわけではないのは明白である。彼らはSNS上で自らを「狂っている」ように演出しているに過ぎない。

 つまり、なんでもない。オタクを差別する世間という仮想敵に抗って、ただ「怪文書」と称し狂気を演じていたに過ぎなかったわけだ。そもそも、物心ついたときにはアニメやまんがに囲まれて楽しく友人と語り合い、「世間からの疎外や葛藤」も『「なんで自分はこんなものが好きなんだ」という問題意識』*5も経験してこなかった第3世代以降の「オタク」が「抑え難いもの」など持っているはずもなかった。

 「狂っている」という熱狂の中に自らを放り込み、同じく「狂っている」「闇が深い」友人とその感覚を共にすることによって安心したり、「通常」と「異常」の境界線を再確認したり、もっとシンプルに言えば遊んでいたわけだ。実際に狂っているわけでも、闇が深いわけでもなく、深刻な抑え難い悩みを抱えたり抗いがたい現実に対峙しているわけでもない。私たちは「通常」と「異常」の境界線の上を反復横とびして遊んでいるに過ぎない。

 

 結局なにが言いたいのかというと、最近「オタク」を嫌いになっている、という同族嫌悪の告白がしたかったわけである(なお、大塚の引用が多いのは単に筆者の趣味です)。

 

 

 俺自身マッチポンプをやってしまっていたし現在も無意識にやってしまっているので、これについて云々する資格はない(すでに前座でやってるしね)。そもそも、そういったマッチポンプを自然に受け入れて楽しんでいる人に口を挟むのは無粋だし、はっきり言って迷惑である。

 ただし、それを自分がやっていることはマッチポンプであることを意識しているといないとでは全然違うでしょう。加えて、最近は、こんなマッチポンプを若いうちからやっていてどうするのか? という気持ちも強い。このマッチポンプには流石に意味がなさすぎる。いや、私たちが生まれてから死ぬまでに経験するすべてのことに目的的な意味がないことなんかは分かっている。にしたって、他にもっとやるべきことが誰しもあるはずだろう。俺にもあると信じたい。

 つまり、あらゆるものが複製であることを受け入れるのはもうちょっと歳をとってからでもいいんじゃないのか、と思う。もうちょっと真正でいたいし、真正でいようとする努力の中でしか真正でいられないのであれば、俺はそれを肯定する(青いとか煽ったら化けて出ます)。

 この辺りの気持ちは抱月に影響を受けているなぁという感じがする。今やっていることが終わったら一から著書を読みたい。

 

 

 

 先月、加害性について考えてるだの何だの言ったがあまりまとまっていない。とりあえずこんな感じ。

 

・ヒト扱いとモノ扱い

 一般論として、人をヒト扱いするよりもモノ扱いする方が興奮する。これは説明しなくても分かるだろうので割愛する。

 同様に、物をモノ扱いするよりもヒト扱いする方が興奮する。これは擬人化を想定している(もちろん何にでも例外はあって、ベルリンの壁エッフェル塔と結婚した人は存在する。あくまで一般論として、物そのものに発情する人は少なく、物をヒト扱いする方が興奮を惹き起こしやすいという話)。

 人や物それ自体ではなく、人のモノ扱いや物のヒト扱いという歪みに興奮しているのである(こういうものを「過程」の話と呼んでいる)。

 

・一定の条件で評価が逆転し得る

 たしか『缶詰少女ノ終末世界』だったと思うが、「人間をモノとして認識した上で殺すよりも、ヒトと認識した上で殺す方が精神力を必要とする」というような文章を読んで、少し考えさせられた。たしかに後者は前者よりも狂気の度合いが強く、その実行のために要請される精神的な強さの度合いもより高いような感じがする。

 1つ1つの行為を単純に数え上げる加点方式であれば、前者の方が加害性は強い。前者は「モノ扱い」で+1点、「殺害」で+1点、合計2点。後者は「殺害」で1点のみ。しかしながら、「モノ扱いした上で殺害」と「ヒト扱いした上で殺害」を比較した時、後者が要する精神力の度合い(=狂気の度合い)は前者のそれを上回るように感じる。ただし、あくまで人間が人間を殺害するという関係においてのみ狂気の度合いが高いように感じられることが重要(例えば主体や客体の一方がヒト以外であれば狂気の度合いは下がる)。

 つまり、加害性と狂気の度合いは単純に比例するものでもないっぽいね、ということ。

 あんまり深まらなかったです。

 

 

 2022年も頑張りましょう。

*1:筑摩書房、1992年

*2:講談社、2004年

*3:講談社、2001年

*4:『大学論』、講談社、2010年

*5:岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる 電子版』、2014年、ebook-Kindle