2022年1月 セレプロ雑感/オタクのテーゼ

 

 アニメと美少女ゲームをやる時間はなんとか確保できているが、本にまではなかなか手が届かない。悲しい。かなピーの原罪です。

 以下、辛うじて観たアニメの1つ、『SELECTION PROJECT』の感想。

 

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 実際、11話は途中まで良かったのだ。今まで彼女たちを「推し」ていたオタクらが、『9-tie』として生まれ変わった彼女たちのファーストライブに誰一人として現れなかったのは、セレクションプロジェクトという後ろ盾を失くした彼女たちに一切の価値を認めないからである。

 セレプロの世界でも現実の世界でも、多くの場合「推す」という言葉はその程度の温度感で用いられる*1。つまり、「推す」という行為は多かれ少なかれ行為者のアイデンティティと結びついており、そこで「推される」他者は行為者の身にまとう記号でしかない。だからこそ、「推される」他者に価値がなくなれば行為者は平然と「推す」のを辞め、他に「推せる」他者を探して彷徨い始める。9人を「推し」ていたオタクは、実のところ9人を「推す」という記号を身にまとった自分自身に酔っていたに過ぎない。それこそが「推す」という行為の意味である。

 そして、そんな冷たい現実に直面した9人がいかにして〈リアリティ〉ショーを脱却し、〈リアル〉を確立していくか、という成長を描いた11話は、その途中までは高く評価できると言えよう。しかしながら、結局は9人の〈リアル〉を〈リアリティ〉ショーに回収してしまった時点で、もはや作品としては取るに足らないものになってしまった。セレプロ再開の誘いに対して、9人がセレプロ運営に中指を立てなかったことに本作品の限界が明確にあらわれている。

 また、これは昨今のあらゆるコンテンツにも言えることだが、コンテンツの消費者と提供者とが共犯関係を結んで「感動的な」物語の生成に積極的に参与する、という図式に対する嫌悪感が筆者には強かった。品川駅の炎上広告などより、こちらのほうがよほどディストピアであると思う。なんというか、コンテンツの提供者と消費者はもっと距離をとるべきではないのだろうか?*2

 話をセレプロに戻すが、いくつかの点で進行上の理由付けが弱いとも感じた。そもそも9人全員が地方予選を勝ち残るべくして勝ち残ったという印象が薄い。また、セレクションプロジェクトを全員が辞退するほどにお互いを信じ合うようになるまでの描写も十分だったとは言いがたい。正直に言って、視聴者に物語を受け入れさせるだけの説得力が全体を通して欠けていた。そのような、ある種の軽薄かつ予定調和的な筋立てを通して私たちに薄気味悪さを覚えさせることが制作側の目的であるのなら奏功していたと言えるが、まあそんな目的はないのだろう。

 

 とまあ、それっぽい(しかもとんでもなく古臭い!)ことを書きましたが、結局言いたかったのは、そこそこの面白さであったということでした。なにかしら言いたくなるということはそれなりに面白い作品だったことの証左です。

 もっと言えば、『Naked Blue』が良い曲だったこと、淀川逢生ちゃんが終始可愛かったこと、今鵜凪咲ちゃんの「みんな本当は、こんなはずじゃなかった、って後悔してるんじゃないの?」発言あたりは好きでした。

 あとは、もう全く知らないけど『Naked Blue』はおそらくK-POPっぽいところがあるんだろうと思っていて、リアリティショーという設定も含めて、そういった若者文化を本作がいかに取り込んでいるか、という点から出発するセレプロ考があれば読んでみたいなと思いました。

 

 余談として、「9-tie」は商標出願が拒絶されています(68へぇ~)、確定はしていませんが。

https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-2021-055075/CE71A1E74EFC06001F1ADA4D293AC4F5DF14EBAC2C417C4F10092DA016CC3EDF/40/ja

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J-PlatPat(https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

 ※2022年5月30日追記

 補正で登録されましたね~。KADOKAWAは基本的に補正書による指定商品・役務の削除のみで、意見書反論することはあまりないっぽい。今回のも審判いけば登録できそうですけどね(素人見解)。

 

 

 

 オタクが最近掲げてる「他人の好きなものを否定しない」というテーゼは寛容と融和の姿勢というよりも、(他人にとやかく言われたくないから)相手にとやかく言わないという心性の反映のように自分には見える。そして、そう考えるときに思い出されるのは佐伯啓思『「市民」とは誰か』である。引用する。

 〔引用者注:ヨーロッパ人は〕「個人」の意識が強く、「個人」だけが実在だと考えているから「個」を大切にする、といったこととは違う。しばしば、この「個」の中には、強烈な国家意識や民族意識や地域意識といったものがある。ただそれをいちいち表出しているのではとてもやっていけないのである。

 さらにいえば、こちらがそれを正面に出せば向こうも同じことをしてくる。すると、こちらも常に、他人の敵対を、他人の嫌悪を浴びせかけられることになるだろう。これでは身がもたない。だから、個人主義とは、相手を尊重するというよりもまず、わが身の安全を確保するための便法であるといってもよい。個人主義という相互不干渉のルールをつくっておかなければあぶなくてしかたがないのである。だからヨーロッパ人にとって個人主義が本当に望ましいものなのかどうか実はよくわからないというべきかもしれない。

 オタクが好んで使うTwitterでは気軽に喧嘩をふっかける/ふっかけられることができるので、自然と上のような身の処し方になった、という方が的を射ているように思う。

 

 全然書けなかった! 2月も頑張りましょう。

*1:例えば、『ウマ娘』という巨大コンテンツを「推し」ながら、平然と「推しはライスシャワーだ」と言えるのは何故なのか? そのダブルスタンダードに何かしらの葛藤を抱いたりしないのだろうか? 筆者が真剣に訊ねてみたい質問の1つである。

*2:余談として、筆者はオタクの自己や他者を語る言説にしばしばある種の特権意識のようなものが見て取れることに関心をいだいており、特権意識が芽生える原因の1つに、コンテンツの消費者が半ば提供者としても参与し、その位相が重なるのに伴って「自分たちはギョーカイに精通している」と意識するようになるという事情があるのではないかと考えている。そのような特権意識は、例えば今季アニメ『佐々木と宮野』でも見られるように、「ギョーカイに精通している」オタクが、「ギョーカイに精通」していない非オタクの人々のことを「一般人」と呼ぶといった形で表出する。オタクらは「評論家(笑)」の特権意識には敏感な一方で、自身らの特権意識には鈍感だということがいえるのではないか。