安達としまむらを擁護(まも)れ。

先日性格診断テストをやったところ、INTP型と診断されました。 

www.16personalities.com

 

こういうものは大抵「はいはいバーナム効果ね」と話半分に受け止めているんですが、一方でやはり思い当たる節もあり、少しばかりウッとさせられちゃった。

特に『他人を、実際の話し相手として見るのではなく、自らのアイデアや論理について自分自身と討論する際の反響版として利用しているのです。』なんかはモロに自分だった(人に不快感を覚えさせるのは本意ではないので今すぐ止めたい)。

 

で、つらつらとINTP型の弱点を見ていて気になる部分がありました。

Loathe Rules and Guidelines – These social struggles are partly a product of Logicians’ desire to bypass the rules, of social conduct and otherwise. While this attitude helps Logicians’ strength of unconventional creativity, it also causes them to reinvent the wheel constantly and to shun security in favor of autonomy in ways that can compromise both.

どうも「ルールやガイドラインを嫌うために型破りな創造力が発揮されるが、一方で車輪の再発明もしがち」なのが弱点であるらしい。

型破りな創造力などはこれっぽっちもないので、車輪の再発明についてもいまいちピンときていなかった。……んですが、後日大学に置きっぱなしにしていた自転車を取りに行き、駐輪場に着いてから鍵を持っていないことに気づいてトボトボと高田馬場を歩いていた時のこと。

いつものようにしょうもないことを考えていて、一つの納得できる結論にたどり着いたまさにその瞬間、「これ再発明だな」と気づいて上記の弱点に合点がいきました。

ので、整理するためにこの文章を書いています。

 

以下①その時何を考え、どんな結論に至ったのか、②その結論の何が再発明だったのか、③再発明の意義についてのお話しです。

 

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2020年10月に放送された『安達としまむら』という作品がある。

当該作品の紹介は本稿の眼目ではないので割愛するが、一般に百合というジャンルに分類される作品だ。筆者はこの作品にやたら入れ込んでいる。

ところで百合に分類される作品といえば、2018年にアニメ化され好評を博した『やがて君になる』が有名だろう。

これら2作品は同じジャンルに属し、アニメが放送されてから日が浅いためか、しばしば比較して語られる。

そしてその内容は(アニメへの言及に限定すれば)『やがて君になる』が『安達としまむら』より優れているというものだと感じている。

 

それは一つの感想なので別段どうこう言うつもりもない(し、何なら筆者もアニメ『安達としまむら』には納得がいっていない)のだが、気になったのは「『やがて君になる』は深く、『安達としまむら』は浅い」という主張だった。

どうこう言うつもりはないが、大した根拠もなく浅いだのなんだの言われるのは極めて不愉快だったので、ここで言われている深い/浅いとは何なのかを考え、それをもって反論しようと考えたことから話は始まる。

 

 

 

さて、我々が作品を評価する時、一般に作品が深い/浅い理由は作品そのものにのみ求められる。言い換えれば、論者は暗黙の内に自分の評価が絶対的であることを前提に作品を評価する。

何故ならば人間は、自分こそが『最もリアルで、鮮明で、大切な、宇宙の絶対的中心に存在する*1』と思い込んでいるからだ。

自分が感覚するもののみが自分の感覚であり、自分の世界なのだ(そしてそれは事実そうである)。アニメを評価する時でも、それは変わらない。

 

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©雨瀬シオリグランドジャンプ集英社



 

一方で、この「作品は論者から独立して深い/浅いといった性質を持つ」という主張は、深い/浅いという言葉の意味を捉えることで容易に覆される。

 

それでは深い/浅いとはどういった意味だろうか。

人によって差はあれど、おおむね「視聴者に考えさせる内容を持つか否か」だろう。 

つまり作品を「深い」と評する時、その視聴者は作品に何かを考えさせられるのであり、逆に「浅い」作品は視聴者に何かを考えることを促さないということである。

そしてここで分かるのは、作品の深い/浅いという性質は、視聴者の存在によって初めて生じる=相対的であるということだ。

視聴者がいるからこそ、作品は深く、あるいは浅くなるのである。

このため、論者から独立して作品が深い/浅いことはあり得ないこととなる。

 

上記の論法によって『安達としまむら』という作品が浅い性質を持っているという虚偽の主張を退けることが出来た。

しかしながら、それは我々が抱えている問題を十分に解決しない。

我々は『安達としまむら』それそのものが浅い作品であることを否定することには成功したが、『安達としまむら』を浅いと感じる論者は依然として存在しており、彼らの感覚そのものを否定することには成功していない。

 

だが我々は何としても安達としまむら』が浅い作品であるという事実を否定しなければならない。

 

したがって、次に我々は作品の深い/浅いがどのようにして決定されるのかを考える必要がある。それによってこそ、『安達としまむら』は浅いと主張する論者の噓を退け、むしろ深い作品なのだと主張するための礎を築けるというものである。

 

 

それでは一体、作品の深い/浅いはどのように決定されるのか。考えを巡らせる中で、以前"作品の新規性"について色々と考えていたことを思い出した。

それは「作品が面白いか否かは、その作品といつ出会うかのみによるのではないか」という話である。

 

例えば同一のテーマを持つ作品A,Bがあるとしよう。

両作品のシナリオや登場するキャラクターは当然異なるが、その中で提示されるテーマ=作者が伝えたい事は同じだとする。視聴者である私は、先にAを観て非常に感銘を受ける。こんな価値観があったのかと目を見張る思いだ。そんな余韻を残しながら、続いてBを観る。まぁ悪くはない。悪くはないが……そのテーマはもうAで観たのだよなぁという既視感めいたものに襲われる。そのため私の中で、BはAの下に格付けされてしまう。

 

だがここで、先に作品Bを観ていた場合はどうなるだろうか。恐らく、自分にとって真新しいテーマを携えたBに感銘を受けるとともに、そのあとに観たAに既視感を覚え、結果AはBよりも下に格付けされるだろう。

 

勿論そうではない場合もあるだろう*2が、これは単なる思考実験ではない。

実際、筆者は大学生の時分に『ココロコネクト』を視聴して「中学生の頃に観ていたらハマっただろうなぁ」という感想を抱くなどの経験が何度かあった。

このように、先に観るか後に観るか(視聴時に新規性があるか否か)によって作品の良し悪しが変わってしまうのであれば、それは本当に作品を視聴していることになるのだろうか?というのを一時期真剣に考えていたことがある。

 

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昔はChrunchyrollでアニメを視聴していた © 庵田定夏KADOKAWA


当時の筆者がその問いにどう答えたかは記憶にないが、作品の深い/浅いもこれと似たようなものではないだろうかと考えた。

すなわち、作品の良し悪しが作品と関係のない要素(新規性)によって決定されてしまうように、作品の深い/浅いはその作品が提示するテーマを考えるための知識が視聴者にあるか否か(仮に有識性としておくによって決定されるのではないか。

 

この「有識性」を考えるに際して、以前見かけたツイートが参考になると感じたので引用する。

 

知らない方のためにwikipediaを引くと、『SHIROBAKO』は「制作進行・アニメーター・声優・3DCGクリエイター・脚本家志望としてそれぞれアニメーション業界に入って夢を追う5人の若い女性を中心に、作品の完成を目指して奮闘するアニメーション業界の日常を描く群像劇」である。

『ミッドサマー』は「アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデン夏至祭へと招かれるが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知る。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆく」という内容の映画だ。ちなみにすごい勢いで人が死ぬ。

 

普通に考えればカルト的な儀式の中で大量の人が死んでいくミッドサマーはSHIROBAKOよりも視聴者の恐怖を煽るはずだが、当該ツイートはそれを否定する。

何故ならば、スウェーデンの山奥にある集落は当該ツイート主にとって『ヨソの話』だからである。分かりやすく言えばミッドサマーで描かれる出来事は"非現実"的な「対岸の火事」なのだ。

さらに翻って、ツイート主はSHIROBAKOの方が間違いなく怖いと主張する。それは、普段我々が何の気なく視聴しているアニメが『実は極めて杜撰な態勢と悪辣な商習慣に塗れ』て制作されているという"現実"を目の当たりにしたからである。

 

ツイート主にとって「SHIROBAKO/ミッドサマー」はそのまま「現実/非現実」に置き換えられる。一方でアニメに疎いスウェーデン人にとっては、SHIROBAKOこそ非現実で、ミッドサマーが現実に感じられるのかもしれない。

いずれにせよ、それら二作品の間にあるのは視聴者の知識の差によって恣意的に引かれた境界線であり、シュルレアリスムでいうところの柵なのである。

 

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太ったおばさん『シュール漫画』より引用

 

 

少し話がそれたが、ここで伝えたかったのは「視聴者の知識の有無によって、作品の受け取り方は大きく異なりうる」ということだ。

我々はやろうと思えば『けものフレンズ』に人類史を見出し、『色づく世界の明日から』をコンテンツツーリズムの集大成であると主張し、『輪るピングドラム』を精神分析批評できるのである。

 

作品の深い/浅いは視聴者の知識の有無によって大きく左右されるものであり、私たちから独立して作品の中に組み込まれていることはあり得ない。

 

つまり作品を浅いと感じる時、

それは作品が浅いのではなく視聴者の知識が浅いのだ。

 

 

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©Shogo Sugitani, Production GoodBook



 

ということで、無事安達としまむら』は浅くないという事実を導くことが出来た。

恐らくアニメ『安達としまむら』も筆者の頭が悪いだけで、ちゃんと知識を蓄えた上で視聴すれば非常に面白い作品であるに違いない。

そのような仮説に基づき、現在筆者はセクシュアルマイノリティ少女小説恋愛論、映像論、物語の構造分析について独学している。

 

アニメ『安達としまむら』を心から面白いと思える、その日まで____。

 

 

 

以上、深い/浅いという性質は相対的なものであり、私たちから独立して作品が持っているものではないというお話でした。

なんだけど、要はこれ「人によって何を面白いと思うかは全く違うよね」というのを意味もなく複雑かつ長ったらしく書いただけなんだよな。頭の中で一つの結論にたどり着いた瞬間「これは……!」と思う場合でも、ちゃんと言葉にしてしまうと得てして陳腐に見えてしまうのは何なのか。

 

結局のところ一連の話は耳にタコが出来るほど唱えられている言説であり、こんなものはほとんど世界中の人が理解している(あるいは、さらに先を行っている人もいくらでもいる)でしょう。

そしてこれを指して車輪の再発明、あるいはそれよりも複雑なだけのデッドコピーと言わずして何であるのかということに気づいたのが本稿冒頭になります。

かんたんなことをむずかしく、むずかしいことをあさく、あさいことをおおぎょうに考えているんだな。

でもそれが面白いからしょうがない。

 

 

自分が到達した結論は、結局のところほとんど誰もが既に到達した答えであり、車輪の再発明でした。だからと言ってその再発明に全く意義はないのかというと、そうでもないんじゃないかなと思うわけです。

つまり、こういうのは「自分の手で車輪を作ったことがある」というのが大事だったりするんじゃないのかと思うんですね。

だって、作品の深い/浅いを考えたのは、社会貢献のためでも他の誰のためでもなく、自分のためだから。

俺は車輪を初めて作った人の人生ではなく、俺の人生を生きているから。

 

こういった「確実に自分のものに出来たこと」を積み重ねていくのが、長い人生をいかに楽しく過ごすかという点において重要なんじゃないかと。

そう思うわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

でも他人を実際の話し相手として見るのではなく、自らのアイデアや論理について自分自身と討論する際の反響版として利用するのは止めたい。一刻も早く。

 

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©まにお/一迅社 2019


※追記

ショーペンハウエル「思索」(『読書について』、斎藤忍随訳、岩波書店、1960年)を呼んでたら③で書いたことと同じようなことを言ってました(落語)。

*1:『これは水です』(https://j.ktamura.com/archives/this-is-water)より

*2:特に作品受容においてシナリオとキャラクターのいずれを重視するかで意見が大きく分かれると考えられるが、それについては考えがまとまっていないため保留とする