2022年10月 雑記

 

 だいぶ遅れました。

 

 

行政書士試験

 今月の投稿が遅れたのはこのせい。結果から言うと、記述抜きで176点あったのでマークミスが無ければおそらく受かってます。4ヶ月のあいだ暗記しまくれば通る試験なのでこんなもんでしょう(とか言いつつ、途中から転職活動と同時並行で勉強していたのでかなり疲弊してましたが……)。私個人としては弁理士試験の前哨戦的な意味合いがあったので、落ちていたら正直かなり凹んでいた。これで勢いがつけばいいなとか思っていたりいなかったり。

 4ヶ月暗記に全振りしていたので中途半端にしか理解できていないですが、それでも行政法は面白いですね。抗告訴訟まわりなんか特にそうですが、学ぼうと思えばかなり奥深くまで行けそうなポテンシャルを感じました。知財専門でやろうとしているので行政法とは相性も良いし、時間が許せばもっと勉強してもいいのかなーとか思っています。逆に民法は未だに面白さが分からん。アレなにが面白いの?

 

Skeb

 またも渡辺僚一先生に依頼をして短編を書いてもらいました。ファックイエイ! 是非読んでみて、面白かったら『はるまで、くるる。』他SF四季シリーズをやっちゃえばいいじゃない!

skeb.jp

 

その他

 今季1番面白いアニメは『Do It Yourself!!』というのが国民の総意であることは間違いないと思いますが、これの批評がしたい。特に3話について云々したいんだが、例によって時間がちょっと作れなかったのでまた来月か、再来月か……。

 読めてない本も多いし、書きたいものも書けていないし、仕方ないとは言えダメですね。

 これでは精神が緩やかに死んでいってしまうので、まぁなんとかします。

 

 11月も頑張りましょう。

2022年9月 弁理士試験論文式筆記試験結果ほか

 

 ちょっと遅れちゃった。

 

 

沖水ミル批評について

 余裕がなく、今月も沖水ミル批評が書けません……。

 いや、本当に頭の中では完成してるんだけど、出力がうまくいかないし、そもそも出力する時間がない。

 なんとか年内には頑張ります……。

 

弁理士試験論文式筆記試験結果

 結論から言うと、落ちてたにゃんです!!!

 結果はこんな感じ。

 

f:id:yukkedamar-daily:20221003192254j:image

 

 基準となる54点に0.5点足らず。やはり特実1問目で盛大に事故ったのはマズかった。

 勉強の方向性は間違っていないけど、積み重ねた量が足りていなかったという感じですかねー……。流石にSTUDYINGだけだとアウトプット量が足りなかったです。やっぱ金はケチるもんじゃねぇな。

 酷い点数じゃなかったので来年に希望が持てるといえば持てるが、これだけのためにあと10ヶ月前後勉強しなきゃいけないの、アホらし……。

 まぁ頑張ります。

 

退職ないし転職

 もともと転職前提で就いた現職ですが、そろそろ退職&転職するかも。というかします。

 本当はもうちょっと身辺が落ち着いてから検討するつもりだったはずが、色々あって上司に将来的な退職の意向がバレてしまい、結果として遅くとも3月末までに、という形に落ち着いた。

 何がマズいって、ただでさえ11月に行政書士試験があるのに転職先を3月いっぱいまでに探さねばならず、7月にはまた弁理士試験があるという。なぜこんなクソほど忙しいことになっているのか。俺はただ平穏に美少女ゲームと本をやっていたいだけなのに。

 

美少女ゲーム

 人と美少女ゲームの話がしたいよぅ……となっていますが、一方でプレイするゲームは軒並み傍流なので、詰んでいます。最近はアニメも(感覚が合わなすぎて)めっきり観られなくなってきているので、本当にどうしよう。

 

 10月も頑張りましょう。

 

 

2022年8月 雑記

 

 

 本当はSilverBullet等で活躍した沖水ミル先生の作品に登場する「姉」キャラクターの機能について論じたかったんですが、余裕がなくて書ききれなかった。9月中になんとかします。常識的に考えて、仕事して本を読んで美少女ゲームをやって資格勉強をしている合間に批評を書くのは無理です。今に始まったことではないが、何もかも狂っているな。

 で、沖水ミル批評の代わりというわけでもないが、ちょうどよく思いついたのでめちゃくちゃ軽い『ルリドラゴン』(作・眞藤雅興)の批評をやります。私は3話までしか読んでいないので、そのつもりで。

 

『ルリドラゴン』と怒り

shonenjumpplus.com

 

 ひとからひどい目に遭ったら、「しかたない」とか「まあいいや」と思うことをやめること。そして、自分の中にうごめく不快感から身を振りほどいて脱出しようとせずに、そこになるべく長く留まるようにすること。「みんな私が悪いんだ」とけっして思わないようにすること。

中島義道『怒る技術』*1

 

あらすじ

 主人公・ルリは、ある朝自身の頭に角が生えていることに気づく。今まで知らされていなかったものの、実はルリの父親は龍であり、自身が龍と人間のハーフであることを母親から聞かされる。当惑しつつもひとまず学校へと登校したルリを待っていたのは、クラスメイトからの質問攻めであった。人との付き合いが苦手なルリはこれに疲れを覚え、そのためか授業中に居眠りをしてしまい、罰として教師から教科書の音読を指示される。立ち上がったルリは、そこでくしゃみをした拍子に、まるでドラゴンのように大きな火を吹く。大騒ぎとなる教室。直後、ルリは火を吹いた反動による大量の出血で一時倒れてしまう。早退したルリは今後の生活について母親と話し合う。こうして、ルリの「ドラゴン」としての日常が始まるのだった。

 

 私は本作を「怒り」という視点から読みました。もう少し具体的に言えば、本作は「溜まった怒りを適切な形で発散できず、他人も自分も(しかも自分をより激しく!)傷つけてしまう若者」の物語として読むことができます。どういうことか。

 

 まず一般論として、「怒り」と「火」とは結びつきの強いイメージ同士であるといえます。「怒りの炎」というフレーズもあるように、人が怒っている様子はしばしば火あるいは炎を用いて表現されます。そのような表現を用いた作品に触れたことがある人も多いのではないでしょうか*2

 したがって、本作における「火を吹く」という行為は「怒り」の比喩である、と考えるのもそこまで荒唐無稽な発想ではないといえます。

 では、そのような仮定のもとで本作を読むとどうなるか。

 

 1話冒頭、ルリは自身の頭に角が生えていることに気づきます。この「頭に角が生える」ということ自体がかなり直接的な比喩*3であって面白いなと私なんかは思うのですが、さして重要というわけでもないので軽い言及に留めておきます。

 それより重要なのは、ルリが冒頭から継続してストレスを感じさせられていることです。朝には起き抜けに自身の父親が龍であることを母親から聞かされ、かなり当惑します。また、登校した先でクラスメイトの話題の中心となり、「目立ちませんように…」と人の目を心配している点や、友人のユカが「もっと人と話した方がいい」とたしなめている点から分かるように、ルリは「見られる」ことのストレスに弱く、昼休みには「あ~つかれた~」と疲れを吐露しています。要は、ルリは火を吹くまでに強いストレスを感じているのだ、ということが言いたいわけです。

 

 そしてそのような強いストレスにさらされた結果、ルリは授業中に居眠りをしてしまったところを教師によって強引に起こされたことで、思わず「暴発」してしまいます。この「暴発」は溜まった「怒り」を適切な形で発散できなかったからこそ、他者も自身も(しかも自分をより激しく!)傷つけてしまいます。「一般的に言って、怒りを溜めておくとロクなことがない。ある日、自然現象のようにふとした機縁によって噴出してしまう。C君もそれを自覚し、恐れているように、ナイフを持って道路に飛び出し、だれでもいいから刺して、それから自分も刺して死にたくさえなる」*4

 

性ヘキおかしくなっちゃうよ~~~~

 2話、火を吹く前後の会話にも注目してみましょう。ルリは母親から「ルリもおおよそ人間だよ」というやや雑な物言いに対して「んなわけないだろ」と返した後に「ピリッ」と違和感を覚えるわけです。もうお分かりのように、この「ピリッと」というのは「イラッと」と同じような「感じ」なのです。そして、だからこそルリはこの後「これが人間なワケあるかーー!!!」と「怒る」。

 

 

 けれども、ルリはもうすでに一度教室で火を吹いています。つまり、自分の中に溜まった「怒り」をすでに放出しているので、少なくとも「暴発」するようなことはない。「怒り」を都度小出しにすることで、それが溜まってしまうことを防げることを理解している。もっと言えば、ルリは怒り方を覚えたのです。故に、ルリは「怒り」が「こんな普通に出るもんなんだ」と驚きつつ、もはや怒っても「全然痛くない」し、むしろ怒ることで「スッキリ」するわけです。

 

 

 「火を吹く」行為を「怒り」の比喩と捉えると、3話でルリが登校を嫌がっていた理由も理解しやすくなります。彼女は「火吐いた」ことで「皆に怖がられたりしてない」かを心配していますが、要は、人前で起こった手前合わせる顔がない、自分が急にキレる奴だと思われていないか、といった辺りの感情がないまぜになっているわけです。

 だけれども、ルリのクラスメイトは彼女のことを寛容に受け止めてくれます。グッとくる良いシーンですね。

 

 そしてこれは現実においてもそうであらねばならない。もちろん言うは易く行うは難しで、実際にはかなり難しい場面もあるかもしれないけれども、作中で教師が言うように、「世の中色んな人がいるもん」であり、「色々思うところあるかもしれませんが」、お互いに妥協点や接点を見つけて「まあ仲良くやってい」くしかないのです。

 私は大塚英志が好きなので、やや長いですが、最後に大塚の言葉を引用して終わります。『無論、「日本」に誰かが私的に自分自身のアイデンティティを委ねる立場をぼくは否定しません。ぼくがそれを選択しないだけであって、ぼくにとって国家とは公共サービスの制度上のカテゴリーでしかありません。ただその時、問題なのはそう考えるぼくと、そう考えないあなたと、また全く別の立場をとる別の誰かがこの国でにも拘わらず共存していかなくてはならないという当たり前の事実です。例えばその時に「日本が嫌いなら日本を出ていけばいい」と言うのは反則です。その場合の「日本」はそう主張する人の「私」と一体となった「日本」であって、つまり、それは「俺を嫌いなお前」をただ否定しているに過ぎません。』*5


 以上! 2日で書いたので雑だが勘弁してくれ!

 

サブリミナル・アジェンダ

 「サブリミナル・アジェンダ」というのは柚子乃というアーティストの楽曲の1つです。今は亡きWHITESOFTという美少女ゲームブランドから発売された『ギャングスタアルカディア』という作品のOPなんですが、大きく影響を受けた本の1つである、森信成『唯物論哲学入門』*6をこの曲に見たので取り上げた次第です。

 以下、歌詞の一部を抜粋。

上から目線を孤独にも受け入れ

納得出来ないけど無条件にも従う

(中略)

抗うべきと過ちを認めた

立場が違うけど無干渉では許さない

(中略)

守られるべき摂理から始めよう

納得できないなら無抵抗ではいられない

そして『唯物論哲学入門』。

民主主義の概念がどれほど混乱しているかは、たとえば、多数決とはどういうことか、少数意見の尊重とはどういうことかといった問題を出してみるとすぐわかります。ふつうは、多数決が民主主義的決定であると考えられていますが、そうすれば多数派はいつでも民主的であるということになります。たとえば、多数決が基準となっている場合、会議などにおいて多数派を占める側は少数意見の尊重といっても、その意見をまじめに聞く必要もありません。ただ相手をしゃべらせておくだけであって、いずれを決をとれば決まるのですから、いいたいだけいわしておけば気が晴れるだろうということです。かならず負けるのが決まっている場合には、少数派はばかばかしくておれません。いくらいっても、いうだけで負けるに決まっているのです。この場合、少数派のすることは分裂する以外にありません。もし、少数派の方が真理であるなら、多数決が民主主義であるということで、多数派の決定に辛抱しているのはよっぽどの場合であって、普通なら辛抱できません。*7

 

 それが結果として多数派に阿る形になる以上、「中立」などと言って逃げることは原理的に不可能であるし、むしろその点に無自覚であるだけ暴力的でもある、という色々と複雑で困難な時代だなーということを思う。そういった多数派と少数派(個人)との対立をいかに裁くか、という点に重きをおいているからこそ後述する木庭顕先生が魅力的に映ったのだろうな。とにもかくにも、私たちは多かれ少なかれ、「立場が違うけど無干渉では許さ」れないし、「納得できないなら無抵抗ではいられない」ということですね。

 こういうことをしていると、「歌詞になにかを見出すのが青臭い」という声が聞こえるが、俺はこういうことをします。お前もやれ!

 

その他

 最近読んだ本で、木庭顕『誰のために法は生まれた』という本がオススメ。国家権力と反社会的集団とが徒党を組んでいる日本という国に生きる1人として読んでおくべきだなーという感じ。「占有原理」という考え方のモデルは持っておいて損はないと思われる。僕は勝手に師事している人リストに加えました。

www.amazon.co.jp

 

 後、これはもしかすると面白いんじゃないかと狙いをつけている美少女ゲーム(他にもいくらでも例示できるんだけど、今一番期待している作品)。といっても美少女ゲームも本に負けず劣らず積んでいるので、いつになったらプレイできるのかは誰も知らない。

 

www.youtube.com

 

 多分あと2,3年くらいは2010年前後に発売された傍流美少女ゲーム知名度も無ければヒットもしていない美少女ゲームをそう呼んでいる)をプレイして暇を潰せると思う。もはや最近のアニメはほとんど全部つまらなく感じるようになってしまい仕方なく傍流美少女ゲームに移行した、という経緯があるので、これをやり尽くしちゃったらどうなるんだろう、と今から戦々恐々です。

 

 9月も頑張りましょう。

*1:2006年、角川書店、37~38頁

*2:私が真っ先に思い出したのは『小林さんちのメイドラゴン』です。偶然ながら、これも「ドラゴン」が登場しますね。

*3:角が生えるとは - コトバンク

*4:中島、前掲書、67頁。

*5:大塚英志『私たちが書く憲法前文』、角川書店、2002年、282頁、太字は引用者

*6:新泉社、1972年

*7:102~103頁

2022年7月 雑記

 

 ちょっといろいろと余裕が無くて一番書きたいことを書く時間が作れなかったです。SilverBulletという美少女ゲームメーカーでシナリオをいくつか執筆していた沖水ミルというライターがいて、この人の話をしたいので、頑張って来月中に投稿します。読んでね。

 

 そういえば、7月3日に弁理士論文式試験を受けてきました。かなり前のことのように感じるけど、まだ1ヶ月くらいか。

 結論から言えば、特実の1問目で事故ったので多分落ちてると思います。設問の難易度だけで言えばそこまで難しい、と言うことはないと思うんですが、なんか焦ってしまった。型が身についていなかったのと、シンプルに練習量が足りてなかったな、という感じ。

 すでに特許庁が公開している論点は、読んだところで不安が増すだけなので読んでません。商標は不当利得返還請求について言及しなきゃいけなかった、ということだけはSNSで見かけたので知ってます(当然書いていない)(だって民法1ミリも勉強してないんだもん)(ファック!)。

 

 それとは別に、選択科目については免除を狙っていて、無難に応用情報でも取るか~と思っていたんですが、以前、1点足りず不合格になったんですね。

 で、また勉強し直しても悪くはないんでしょうけど、やはりちょっと情報系はどうも向いていないらしい。そもそも自分は天地がひっくり返ってもIT系には進むことはないだろうので、過去問道場をまた暗記し直すのはとてもではないモチベーションを保てないし、運要素も強いので確実に受かるとは限らない、と。まぁ一発で受かることができなかった人間の戯言ですが。結局資格は受からんと意味ないもんなー……。

 

 話が逸れたけど、長期的に意味が強く、論文式にも(乃至今後の人生の諸場面においても)活かせるという理由から、行政書士試験にシフトしようと思ってます。てかしてます(もういろいろ買っちゃった)。民法はもちろん行政法も当然に有用だし、憲法はいずれ勉強しようと思っていたし、といろいろ考えると一番ちょうど良いなという感じがして、勢いで決めてしまった。いくぜオラッ!

 一番の問題は4ヶ月しかないこと。普通1年くらいかけて受ける試験らしいね、ウケる。いやまぁ最悪落ちても選択式試験で民法選べば抑えがきく……と思う。知らんよ、何も知らん。ただでさえ世間のことについての勉強が足りてないんだこっちは。

 勉強しなきゃいけないことが多すぎですね。何らかの価値判断をするにあたって必要な情報の絶対量が全然足りていないという自覚をようやく持ち始めました。落ち込んだり諦めたりしても仕方ないので、ぼちぼちやっていくしかないですねー。

 

 なので、身辺が落ち着くのはもうちょっと、てかかなり先になりそうです。早く大学院行って死ぬ程本読んで美少女ゲームやって文章書いて死にたいっすね。

 

 そういえば、渡辺僚一先生に依頼した遭遇戦のお話が出来上がってました!

skeb.jp

 さすがの出来ですね!  渡辺僚一を知っていても知らなくても、読めばいいじゃない!

 

 ということで、8月も頑張りましょう。

2022年6月 好みの作風/Skeb依頼/怒りのスピーカー

 

 おい、そこのお前。

 今から、ミヤスリサ桜沢いづみひなた睦月は2010年前後の作風が最も可愛い、という趣旨の話をするので付き合いなさい。

 と言っても、大した分析をするでもなく、シンプルな印象論なのだけど。

 

 まずはミヤスリサの今の絵。

 

 次に約10年前。

WHITESOFT『ギャングスタ・リパブリカ』

http:// https://moeapp.net/special/grepublica.html

 おそらく「そんなに変わっていないのでは?」と思っただろう。

 俺もそう思う。いや、なんか比較する前はぜんぜん違うと感じていたんだけど、こうやって並べてみると意外と変わらないもんですね。ミヤスリサはヒロインの服装がいちいち可愛くて良いよね。分かる。

 一応、pixivをザッと眺めると今と昔で多少違う印象を受けると思うので眺めるといいよ。

 次いくぞ、次。

 

 次は桜沢いづみの今の絵。

 

 そして、約10年前。

SilverBullet『花鳥風月 〜恋ニヲチタル花園ノ姫〜』

https://web.archive.org/web/20091217170125/http://www.silverbullet.jp/hanazono/index.htm

 すでに公式サイトが潰れている作品を引用するときにどうすればいいのか、ということについて一生悩んでいる(そもそも権利行使されるとも思わないけど、なんとなく居心地が悪い)。

 引用形式については一旦置いといて、これは結構違くない? 桜沢いづみはさ、こう、グッとくる泣き顔を描くのが本当に上手いんだよな。考えてみると、桜沢いづみの描くHシーンは高確率でヒロインが泣いている気がする。

 

 最後、ひなた睦月の今。

 

 約10年前。

bitterdrop『波間の国のファウスト

http://www.bitterdrop.jp/top

 これは流石に全く別でしょ! 

 

 余談として、『波間の国のファウスト』を制作した bitterdrop とその前身である Sputnik は、笠井翔という人が設立したんだけど、この人は笠井潔の息子さんなのです。いま、この笠井と、『波間の国のファウスト』のシナリオライター佐藤心がどうやって知り合ったのか、というのを調べているんですが、いまだ推測の域を出ず、判然としません。

 仮説の1つとして、この記事の中で佐藤が「同人ゲームをプレイしてくれた方が「佐藤さんのシナリオ良かったので一緒にやりましょうよ!」と言ってくれたんです。それで『波間の国のファウスト』を書くことに。」と発言していることから、何らかの即売会等で出会った可能性があります。これが本命(というか、佐藤心が携わった同人ゲームをやりたすぎる。せめてタイトルだけでも教えてくれねぇかなぁ)。

 もう1つのアクロバティックな仮説として、佐藤心は一時期東浩紀と深めに関わっていたことがあり、東浩紀笠井潔は往復書簡を交わしていたことがあるらしいことから*1、そこでできたつながりで紹介されたのでは、というのがあります。当然、この線は極めて薄いです。

 なんだこの話。

 

 本筋と1ミリも関係のない話をしましたが、要は10年前の方が概して良くない? ということを言いたかっただけだぞ。

 というか、そもそも作風に限らず、今の作品よりも2010年前後の作品の方が好きなので、結局「2010年前後」そのものが好きなんだと思う。思えば、アニメを観始めたのがちょうどその頃だったりする。

 

 話したいことは話したので、もう帰っていいぞ。

 

 

 

 イエイ! Skebで渡辺僚一先生に短めのお話(遭遇戦の話!)(俺は渡辺僚一の書く遭遇戦が好きなのだ!)を書いてもらっているぜ!

 

skeb.jp

 

 もうすでに他の方の依頼品がいくつもあがってるので、渡辺僚一を知ってる人も知らない人も読めばいいじゃない! そして俺の依頼品が完成したら、それも読めばいいじゃない! そして読んで面白かったら『はるまで、くるる。』他SF四季シリーズをやっちゃえばいいじゃない! イエイ! ファック! 

 

 本当に、こういう人を生かさないとダメだと思いますよ。俺は。

 

 

 

 ほとんど校正しないで文章を放流する。

 

 昔から、怒りの感情をコントロールするのがあんまり上手くないなぁという自覚がある。

 流石に最近は怒りの感情を他人にぶつけるようなことはなくなって一人で処理できるようになっているが、原始的な怒りの感情を自ら言葉にしてしまうことで、それが自分の中で増幅されていくというようなこと自体はそれこそ頻繁にある。

 自分自身がスピーカーとなって増幅させた怒りの感情を自分に向けて放つことで、ある種の自己暗示みたいなものにかかってしまう。

 怖いにゃんね。

 

 なんかこう、正義感とかでもないんだけど、他人が間違ったことを言っているのを見るとイライラして仕方ない。

 先日、「ゆっくり茶番劇」が商標登録された件が話題になったが、これについても無名の一般人からインフルエンサーまで、シンプルに商標法を理解していない誤った主張や事実の誤認に基づく主張をしていて、死ぬほどイライラしてしまった。

 以前、「日本には敬意を持って他人を批判できる人がいない」というのをどこかで見て、俺も例に漏れずそうだなと思った。すぐ罵倒したくなってしまうし、その罵倒を頭の中で反芻することによって、また怒りが増幅されてしまうという悪循環。SNS向いていないよお前。

 そして、これが一番良くないなと思っているんだが、俺は罵倒するとき(実際に罵倒するのではなく、頭の中で罵倒する自分をイメージするとき)、相手にダメージを効果的に与えるような、強く響くようなレトリックを思いつく。というか、思いつけてしまう。こうすれば相手の尊厳を傷つけられるだろう、みたいな文言がスッと出てくることに自分でも驚いてしまう。いつ覚えたんだろうか。そんなものは覚えなくてよかったのに。

 

 ここまで書いていて思うけど、やはり感情ベースで話が進んでしまうな。↑の「そんなものは覚えなくてよかったのに」もなにかレトリックがかかっているという感じがする。別にレトリックを使うのはいいと思うんだけど、「まともな」レトリックを使わないといけないとも思う。そして、俺が学習したレトリックというのは少なからず「まとも」ではないという感じもする。

 勉強しないとなぁ。色々となんとかしないといけない。

 

 7月も頑張りましょう。

 

*1:動物化する世界の中で ―全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評』、集英社新書

2022年5月 『おにぱん!』6話 雑感/弁理士試験短答結果

 

 『おにぱん!』6話 雑感

 

 アニメの話だ、オラッ!

 ということで、『おにぱん!』6話のお話をします。

 以下、6話あらすじを引用。

トップアイドル「のりりん」。新曲のPVは配信開始即日で1億再生!SNSフォロワー数も世界トップクラス!歌にバラエティにドラマに引っ張りだこの、まさに最強のトップアイドル!だが、その正体は謎に包まれている。ある日、おにっ子たちは偶然のりりんに遭遇し、その正体を目撃してしまう―…!と、同時にのりりんはとある重大な危機に陥り…!?おにっ子3人はのりりんのピンチを救えるのか!?*1

 『おにぱん!』6話「アイドル伝説のりりん」では「変身」を軸に、つつじ、ひまわり、つゆくさのおにっ子3人と一寸法子とが対照的に描かれていました。具体的には、おにっ子3人と法子はどちらも「変身」することができるという点で共通しているようですが、実際にはその「変身」はまったく異なる意味を持っている、と見ることができます。

 以下では、「変身」にまつわる3つの点からおにっ子3人と法子との差異を明らかにしていきます。その3点とは、変身前後での同一性の認識、付与される能力の有無、「変身」に対する価値観です。

 

 変身前後での同一性の認識について

 おにっ子3人は、彼女ら自身や周囲の人々が変身前と変身後の彼女らを同一の人物であると認識しているでしょうか。

 「おにぱんチェンジ」に際して、おにっ子3人は周囲の人々が見ている中で堂々と変身しています(しかも、わざわざ「おにぱん」が見られる態様で!)。これは彼女たちが鬼のイメージアップを目的としている以上、当然のことです。というのは、「おにぱんチェンジ」をして人々を助けているのはおにっ子3人であって、変身前と後とは同一の人物である、と市井の人々に認識してもらわなければ鬼のイメージアップに繋がらないからです。

 また、初回で説明があったように、おにっ子3人は「おにぱんチェンジ」をしたところでその衣装が変わるのみであり、なにか特別な能力が付与されるということはなく、言わば「おにぱんチェンジ」は単なる着替えに過ぎません。つまり、「変身」をしたところで、おにっ子3人は外観上の差異についても、能力という実質的な差異についても大きく変わることはないということです。

 したがって、人々は変身前のおにっ子3人と変身後のおにっ子3人とを当然に同一の存在として認識していると考えられます。同様に、おにっ子3人もまた変身前と後の自身らを同一の存在だと考えている、と考えるのが自然でしょう。

 

 他方、法子は自身の正体、すなわち実は法子がのりりんであるという事実を隠しており、変身の際も周囲の人々に見られないように注意を払っていることが見て取れます。したがって、周囲の人々からは、法子とのりりんとは別人として認識されているということが言えます。

 そして、これは後述する「付与される能力の有無」とも関連することですが、法子自身もまた法子とのりりんとを別の存在として認識していることが作中から伺えます。足早に次項に移りましょう。

 

 付与される能力の有無

 おにっ子3人は「おにぱんチェンジ」をしても衣装が変わるのみであって、特殊能力が付与されるということはありません。この点がおにっ子3人の変身前と後とは同一の存在であるという認識を促す1つの要因となっている、ということは既に述べましたが、この点は同時に法子との対比においても強い意味を持ちます。

 

 劇中、ファンであることの証明としてのりりんの曲を歌うよう要求された法子は、「変身しないと歌えない設定」であることを理由に歌うことを拒否しました。法子はのりりんに変身しないと歌えないというのは、逆に考えれば、法子は変身することで「歌う」ことができるようになる=「歌う」という能力が付与される、と考えることができます。

 法子自身もまた法子とのりりんとを別の存在だと捉えている、と筆写が考えるのは主にこのためです。おにっ子3人が「おにぱんチェンジ」をしても能力を付与されないという事実と対比したとき、この「歌う」ことができるか否か、という点は法子とのりりんとが別の存在であることを決定づける大きな差異となってあらわれてきます。彼女は自身を指して「我は闇にして光。光にして闇」と表現していますが、「変身」による能力の付与は、法子とのりりんとが闇と光のような全く別の存在であるという彼女の認識の原因の1つだということが言えそうです。

 

 このように、おにっ子3人と法子は同じ「変身」をしていても、その内実は全く異なるものであるということが分かります。そしてその異なる内実は、彼女らの「変身」に対する価値観にも影響を与えています。

 

 変身に対する価値観について

 繰り返すように、おにっ子3人は「おにぱんチェンジ」をしたところで衣装が変わるのみであり、何ら能力が付与されることはありません。そのためか、彼女らは「おにぱんチェンジ」できることを理由に偉ぶるようなことはありません。そこには「おにぱんチェンジ」ができる我々が困っている人々を救う、というある種傲慢ともいえる発想はなく、純粋な善意で人々を助けている様子が見て取れます。実際、6話のつつじは打ち出の小槌を「探すので精一杯」で、鬼のイメージアップという本来の目的をすっかり忘れていたわけです。おにっ子3人は、「変身」できることが特別なことだ、偉いことだなどとは考えていません。

 

 一方、法子は「変身」ができることに対して、おにっ子3人とは全く異なる価値観を持ち合わせています。

 6話ではのりりんの姿で街中を歩いてあえてファンに見つかり、視界から外れたタイミングで法子へと戻ることでファンを戸惑わせて楽しむ、という有名人の振る舞いとして品があるとはとてもいえない遊びをしています。なお受け入れがたいのは、そんな当惑するファンの様子を見て、あろうことか「我とは知らずにのりりんを崇める者たちを見るのは、優越」と発言したという事実です。

 このような事実を考慮した上で物語を俯瞰して眺めると、法子は自分の見せたいものだけを見せ、自分だけが真実を知っていて、かつ「成功者」として崇められている、というグロテスクな構図を見て取ることができ、6話において、法子はまるで中二病と呼ばれる人々の出来の悪い妄想を体現したような存在として描かれているということが分かります。

 

 このように、おにっ子3人と法子とは同じ「変身」をしているものの、その内実は全く対照的であることが分かります。おにっ子3人が徹底して現実的であるのに対して、法子は中二病の妄想が体現したような存在として描かれていました。

 したがって、私的には、今後の物語展開において法子のようなキャラクターは1度痛い目を見るべきであると考えます。

 

 余談ですが、『おにぱん!』8話では、「おにぱんはただの着替え」とおにぱんの必要性の無さを認識しながらもおにぱん獲得のためおにっ子3人が試練に挑む、というやや不可解な話が展開されていました。この点からも、おにっ子3人にとって、あるいは『おにぱん!』において「おにぱん」とは何なのか、というのはやはり重要な問いであるように思えてきます。

 

 

 

 いつも月末に上げてるわけですが、今回は筆が遅々として進まず遅れてしまいました(最近めっきり読書ができておらず、ただでさえ少ない蓄積が底をついているせいです)。拙速は巧遅に勝るというので、最低限なにを言いたいかが分かる形にして放流。くそー、悔しい。

 

 

 

 弁理士試験短答結果

 

 特実:11

 意:8

 商:5

 条:8

 著不:9

 合計:41

 

 で、多分通りました。マークミスがあったら笑えないですが。

 特実で最初の3問を間違えていたときは「あ、また1年勉強かー……」と諦めかけましたが、条と著不でなんとか巻き返せました。ただ、商標を専門でやりたいのにこの点数でいいのか、というのは割と深刻に考えています。

 体感的には大学受験とトントンかそれ以上にキツかったです、普通に二度とやりたくない。法のお勉強は、決して苦手ではないが得意ということは全然ない、という感じ。まぁ食べていくための選択として割り切ります。オタクコンテンツカンパニーで知財やりたいよぅ。

 というか、試験勉強のためにここ1年間が全部持っていかれたので人生が全く進んでいない。進んでいない! 早く人生を進めたいです。

 論述受かる気しねぇ~。

 

 2022/6/13追記

 短答通ってました。

 

 

 

 本当は、「新興カルチャーは10年やそこらで技術が著しく進歩する点が面白い」という話と、「『明日ちゃんのセーラー服』は主人公の振る舞いが無自覚マッチョ的な印象を受けてしまってキツい」という話と、「倍速視聴に対するスタンスを決めるのは、関連する分野(分析美学*2とか映画史*3とか、映像再生機器の登場がもたらした視聴態様の変化*4とか)を一通り勉強してからでもいいんじゃないの? なんでそんなに倍速視聴を批判したがるの? 逆に、等倍速視聴が『正しい』と主張する根拠はどこにあるの? そうやって、自己に批判の目を向けず、複数の観点から問題を検討することもなしに短絡的に是非を判断しちゃう人って本当に作品を『正しく』観られているの?」という話をしたかったんですが、全然書けなかった!

 

 6月も頑張りましょう。